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道頓堀――川面に立つ人

大阪の道頓堀は、夜になっても眠らない。 ネオンが水面に映り、観光客の笑い声や店から流れる音楽が、川沿いまで響いている。 そんな場所だからこそ、そこにいるはずのないものを見ても、誰も気づかないことがある。 ある男性が、仕事帰りに道頓堀を歩いていた。 時刻は深夜0時を過ぎていた。 昼間ほどの人混みではないものの、まだ観光客の姿は多い。 男性は川沿いの遊歩道を歩きながら、何気なく川面を眺めた。 そのときだった。 川の中央付近に、人が立っているように見えた。 「……誰だ?」 男性は足を止めた。 暗い水面の上に、黒い人影が立っている。 橋の上から落ちたのかと思った。 しかし、おかしい。 その人物は、水に浮かんでいるのではない。 まるで川底からまっすぐ立っているように、腰まで水に浸かった状態で動かない。 男性が目を凝らす。 すると、その人影がゆっくりとこちらを向いた。 顔までは見えなかった。 ただ、こちらを見ている。 そう感じた。 怖くなった男性は、その場を離れようとした。 ところが―― 「……待って」 背後から、小さな声が聞こえた。 振り返る。 誰もいない。 観光客が何人か歩いているだけだった。 気のせいだと思い、再び川を見る。 すると、さっきまで川の中央にいた人影が消えていた。 男性は少し安心した。 しかし、その直後。 足元から、 ポタ……ポタ…… という水滴の音が聞こえた。 見ると、遊歩道には濡れた足跡が続いていた。 川の方向から、男性のすぐ後ろまで。 そして、その足跡はそこで途切れていた。 「……え?」 男性が振り返る。 誰もいない。 だが、今度ははっきり聞こえた。 耳元で、 「見つけた」 そう囁く声がした。 男性は恐怖で走り出した。 人の多い通りまで戻り、振り返ることはできなかった。 翌日、男性は友人にその話をした。 すると友人は、少し黙ったあと、 「昨日、お前がいた場所の写真撮ってない?」 と聞いた。 スマートフォンを確認すると、男性が昨夜何気なく撮影した道頓堀の写真が一枚残っていた。 写真には、ネオンに照らされた川面が写っている。 そして、その中央。 水面の上に、黒い人影が立っていた。 さらに拡大すると―― その人物は、男性のほうを向いていた。 そして、写真の端にはもう一つ。 男性のすぐ後ろに立つ、濡れた人影まで写っていたという。 それ以来、男性は夜の道頓堀を歩か...

大阪城・山里丸――誰もいない石段

夜の大阪城公園には、昼間とはまったく違う空気が漂う場所がある。 その一つが、山里丸だった。 昼間は観光客の姿も多く、石垣や木々を眺めながら歩くことができる。 しかし、夜になると人の気配が急に薄くなる。 ある夏の夜、私は友人と二人で大阪城公園を歩いていた。 時計を見ると、午後11時を過ぎていた。 「そろそろ帰ろうか」 そう言って歩き始めたとき、友人が山里丸の方を見た。 「……今、誰かいたよな?」 私は振り返った。 暗い石段の近くに、白っぽい服を着た人影が立っている。 距離はかなりあった。 顔までは見えない。 「人じゃない?」 そう言いながら、もう一度目を凝らした。 しかし、その瞬間。 人影は消えていた。 「え?」 二人で顔を見合わせた。 石段の周囲には隠れるような場所もない。 それなのに、誰もいない。 気味が悪くなり、その場を離れようとした。 すると―― 背後から、 カツ…… カツ…… と、石段を誰かが降りてくる音が聞こえた。 私たちは振り返らなかった。 足音は、一段ずつゆっくり近づいてくる。 カツ…… カツ…… カツ…… 「……走るぞ」 友人が小さな声で言った。 二人で歩く速度を上げた。 しかし、足音も同じようについてくる。 カツ、カツ、カツ―― やがて私たちは山里丸を離れ、明るい場所まで出た。 そこでようやく振り返った。 誰もいなかった。 「気のせいだったのかな」 友人がそう言った直後だった。 スマートフォンが鳴った。 見ると、知らない番号から着信が入っている。 怖かったが、なぜか出てしまった。 『……もしもし』 返事はない。 ただ、電話の向こうから、 カツ…… カツ…… という音が聞こえてきた。 石段を誰かが歩いているような音だった。 「切るぞ」 そう言って電話を切ろうとした、その瞬間。 受話口から、かすかな声が聞こえた。 「……まだ、そこにいる」 二人とも凍りついた。 そして友人が、震える手でスマートフォンの画面を見た。 着信履歴に表示された番号は―― 自分たちの番号だった。 その夜以来、友人は山里丸に近づかなくなった。 そして私も、夜の大阪城を見るたびに思い出す。 あの石段を歩いていたものは、本当に私たちの後ろにいたのだろうか。 それとも―― 今も誰かが、山里丸の暗い石段を、 一段ずつ、 ゆっくりと降り続けているのだろうか。

大阪砲兵工廠荷揚げ門――夜の門番

大阪城公園の一角に、かつて大阪砲兵工廠で使われていた荷揚げ門が残っています。 昼間に見ると、ただ静かに佇む古い門です。 しかし、夜になると、この場所では妙な音を聞いたという話があります。 ある男性が、深夜に大阪城公園を歩いていたときのことでした。 人通りもほとんどなく、辺りは静まり返っていました。 男性が荷揚げ門の近くまで来た、そのときです。 「……ガタン」 背後から、金属がぶつかるような音が聞こえました。 振り返っても、誰もいません。 気のせいだと思い、再び歩き出します。 すると今度は、 「ガラ……ガラ……」 何か重いものを引きずるような音が、門の奥から聞こえてきました。 男性は足を止めました。 周囲を見回しても、音の正体は分かりません。 その直後―― 「カン……カン……カン……」 今度は、遠くから金属を叩くような音。 まるで、誰かが夜中まで工場で作業を続けているようでした。 男性が門の方を見ると、暗闇の奥に人影が立っていました。 作業服のような服を着た人物です。 男性は声をかけようとしました。 しかし、その人影は微動だにしません。 そして突然―― ゆっくりとこちらを向きました。 顔は、暗くてよく見えません。 ところが、その人物が一歩こちらへ近づいた瞬間、 「……まだ荷物が残ってる」 低い声が聞こえました。 男性は恐ろしくなり、その場から走って逃げました。 しばらくして振り返ると、門の前には誰もいません。 ただ、 「カン……カン……」 あの金属音だけが、夜の静けさの中で響いていたそうです。 大阪砲兵工廠では、かつて多くの人々が働き、軍需品の製造や運搬が行われていました。 今ではその多くが失われ、静かな公園となっています。 けれど、夜の荷揚げ門に立つと―― かつてここを行き交った人々の足音や、重い荷物を運ぶ音が、今もどこかに残っているように感じるかもしれません。 そしてもし夜の門の前で、 「ガラ……ガラ……」 何かを引きずる音が聞こえてきたら。 振り返らないほうがいいのかもしれません。 その音は、まだ仕事を終えていない誰かが、暗闇の中で荷物を運び続けている音なのかもしれないのです。

大阪砲兵工廠跡――夜の工場に残る足音

大阪城の近くには、かつて巨大な軍需工場が広がっていました。 大阪砲兵工廠。 戦争が終わってから長い年月が経った今も、当時の建物の一部や痕跡が残っています。 これは、ある男性が友人と二人で、その周辺を訪れたときの話です。 二人がそこを訪れたのは、夜の十時を過ぎた頃でした。 昼間とは違い、周囲には人の気配がほとんどありません。 街灯の明かりから少し離れると、古い建物の影が暗闇の中に浮かび上がっていました。 「ここ、本当に工場だったんだな……」 友人がそう呟いた直後でした。 カン…… 遠くから、金属を叩くような音が聞こえました。 二人は顔を見合わせます。 カン……カン…… 一定の間隔で、音が続いています。 「誰かいるんじゃないか?」 そう言って、二人は音のする方向へ歩き始めました。 しかし、近づくほど音は小さくなっていきます。 そして、ある古い建物の前まで来たところで、完全に聞こえなくなりました。 周囲を見回しても、人影はありません。 「気のせいだったのかな」 友人がそう言った瞬間。 背後から、 カン…… と、一度だけ金属音がしました。 二人が振り返ります。 そこには、誰もいません。 ただ、暗闇の中に古い建物が立っているだけでした。 そのとき、友人が突然黙り込みました。 「……今、見なかった?」 「何を?」 友人は建物の二階あたりを指差しました。 「あそこ……人が立ってた」 二人で目を凝らします。 窓のように見える黒い空間。 その中央に、確かに人のような影が立っているように見えました。 しかし、次の瞬間。 影はゆっくりと横へ動き、暗闇の中へ消えてしまいました。 「行こう」 友人の声が震えていました。 二人は急いでその場を離れようとしました。 ところが、数メートル歩いたところで、今度は背後から別の音が聞こえました。 カツ…… カツ…… 硬い靴で床を歩くような音。 誰かが、二人の後ろを歩いています。 しかも、こちらが歩くと足音も近づいてきます。 二人が立ち止まる。 足音も止まる。 また歩く。 すると、 カツ…… カツ…… と、後ろからついてくる。 「振り返るな」 友人が小さな声で言いました。 二人は振り返らず、そのまま歩き続けました。 しかし、足音はどんどん近づいてきます。 カツ…… カツ…… カツ…… そして、耳元で突然、 「点検は終わったか」 と、男の低い声が聞こえました...

大阪城公園――夜の石垣に立つ影

大阪城公園には、夜になると人の気配が急に消える場所がある。 これは、そんな場所で起きたという話だ。 ある夏の夜、私は友人と二人で大阪城公園を歩いていた。 昼間なら観光客で賑わっている道も、夜になると驚くほど静かだった。 遠くから車の音が聞こえるだけで、木々の間には風の音しかない。 「せっかくだし、城の近くまで行ってみよう」 友人にそう言われ、私たちは石垣沿いの細い道へ入った。 しばらく歩いていると、友人が突然立ち止まった。 「……今、誰かいたよな?」 前方には、石垣と木々があるだけだった。 「気のせいじゃない?」 そう言って歩き出そうとした、そのとき。 石垣の上から、 コン……。 小さな音が聞こえた。 二人で顔を上げる。 すると、石垣の上に人影が立っていた。 黒っぽい服を着た、細長い人影。 こちらを見下ろしているようだった。 「誰だ?」 友人が声をかけた。 しかし、人影は動かない。 次の瞬間―― その影が、ゆっくりとこちらに背を向けた。 そして石垣の向こうへ消えた。 「……降りたのか?」 私たちは恐る恐る石垣の先へ回った。 だが、そこには誰もいなかった。 人が隠れられるような場所もない。 友人は黙ったまま、スマートフォンのライトを地面に向けていた。 すると突然、 「おい……」 友人が小さな声を出した。 「どうした?」 友人が指差した先。 地面には、濡れたような足跡が残っていた。 一つ。 また一つ。 足跡は私たちが歩いてきた方向ではなく、石垣の下から続いていた。 そして―― 私たちの目の前で途切れていた。 その瞬間、背後から、 ザッ……。 誰かが砂利を踏んだ。 二人とも振り返った。 誰もいない。 しかし、今度ははっきり聞こえた。 ザッ……ザッ……。 足音が近づいてくる。 私たちは何も言わず、走ってその場を離れた。 公園の明るい場所まで戻ったところで、ようやく立ち止まった。 友人が息を切らしながらスマートフォンを確認すると、先ほど撮った写真が一枚だけ残っていた。 石垣を撮影しただけの写真だった。 しかし、よく見ると―― 石垣の上に、人影が写っていた。 しかもその影は、私たちが見た場所とは違う。 写真の中では、 私たちのすぐ後ろに立っていた。 それ以来、友人は夜の大阪城公園には近づかなくなったという。 大阪城公園には長い歴史があり、夜の静かな園内には独特の雰囲気が漂う。 ...

大阪城――夜の石垣から聞こえる声

大阪城には、夜になると「石垣の中から声が聞こえる」という噂がある。 ある夏の夜、大学生の男が友人二人と大阪城公園を訪れた。 昼間とは違い、夜の大阪城は静まり返っていた。 ライトに照らされた天守閣を眺めながら歩いていると、友人の一人が、 「せっかくだし、もう少し奥まで行ってみよう」 と言った。 三人は人通りの少ない道を進み、やがて大きな石垣の前に出た。 その瞬間だった。 「……たすけて」 小さな声が聞こえた。 三人は足を止めた。 「今、聞こえた?」 誰かがそう言った。 しかし、周囲には誰もいない。 風の音だけが石垣の間を抜けていく。 「空耳だろ」 そう言って歩き出そうとした、その時。 「……ここから……出して……」 今度は、はっきり聞こえた。 しかも声は、石垣のすぐ向こう側から聞こえている。 三人は顔を見合わせた。 男がスマートフォンのライトを石垣に向ける。 もちろん、そこには何もない。 ただ巨大な石が積み重なっているだけだった。 ところが、友人の一人が突然、 「ちょっと待って……」 と呟いた。 彼は石垣を指差していた。 「さっきより……石が一個増えてない?」 冗談だと思い、二人も確認する。 すると、確かに一番下の石の隙間に、見覚えのない小さな石が挟まっていた。 その石には、何か黒いものが付着している。 「……血?」 そう呟いた瞬間。 石垣の奥から、 コン…… と音がした。 三人は凍りついた。 もう一度。 コン……コン…… まるで、内側から誰かが石を叩いているようだった。 「帰ろう」 誰かが言った。 三人は一斉に走り出した。 しかし、しばらくして一人が振り返った。 石垣の前に、誰かが立っている。 暗くて顔は見えない。 ただ、その人物は三人の後ろ姿をじっと見つめていた。 そして、ゆっくりと片手を上げた。 まるで、 「待ってくれ」 と言っているように。 三人は振り返らず、そのまま大阪城公園を出た。 翌日。 昨夜のことを確認するため、三人で撮影した動画を見返した。 そこには、石垣の前で立ち止まる三人の姿が映っていた。 しかし、不思議なことに、音声には何も入っていない。 「たすけて」という声も、 「コン、コン」という音も、 一切記録されていなかった。 ところが最後の部分だけ、奇妙な音が入っていた。 三人が逃げ始めた直後。 画面の外から、 「ひとり……置いていけ」 という低い声...

大阪砲兵工廠工場跡――夜の工場に響く足音

大阪城の近くには、かつて巨大な軍需工場が存在していました。 大阪砲兵工廠。 明治から昭和にかけて、兵器や砲弾などを製造していた場所です。 現在では、その多くが姿を消していますが、当時の建物の一部は今も残されています。 これは、そんな工場跡を訪れた男性から聞いた話です。 ある夏の夜。 男性は友人と二人で、大阪城周辺を歩いていました。 時計を見ると、すでに夜の十一時を過ぎています。 昼間なら多くの人が歩いている場所も、夜になると急に静かになります。 そのとき、友人が古い建物の方を指差しました。 「あそこ、昔の工場跡らしいぞ」 二人は少し離れた場所から建物を眺めました。 窓は暗く、建物の周囲には人の気配がありません。 ところが―― 突然、 カン……。 金属を叩いたような音が聞こえました。 二人は顔を見合わせました。 「今の聞こえた?」 「聞こえた」 しばらくすると、 カン……カン……。 今度は、はっきりと二回。 まるで誰かが工場の中で、金属を叩いているような音でした。 もちろん、夜中の建物の中に人がいるはずもありません。 二人は少し怖くなり、その場を離れようとしました。 その瞬間でした。 建物の奥から、 「……ザッ」 何かを引きずるような音がしました。 そして、 ザッ……ザッ……。 今度は足音です。 ゆっくりと、こちらへ近づいてきます。 二人は黙ったまま、その場から動けなくなりました。 足音は建物の中から外へ向かっているようでした。 ザッ……。 ザッ……。 そして、古い建物の入口付近で音が止まりました。 静寂が戻ります。 友人が小声で言いました。 「……帰ろう」 二人が振り返った、そのとき―― 背後から、 カンッ! 突然、金属を叩く大きな音が響きました。 二人は一斉に走り出しました。 振り返ることはできませんでした。 その後、しばらくして二人は立ち止まりました。 すると友人が、青ざめた顔で言いました。 「なあ……さっきから聞こえてない?」 「何が?」 「足音……」 二人が耳を澄ますと、 遠く離れたはずの工場跡から、 ザッ……ザッ……。 再び足音が聞こえていました。 しかし、その足音は建物から遠ざかっているのではありません。 こちらへ向かってきていたのです。 ザッ……。 ザッ……。 そして最後に、 耳元で金属を叩くような、 カンッ―― という音が響きました。 二人はその夜、...

ホテル関西・308号室

大阪・梅田。 夜になっても人の声が絶えない繁華街の一角に、古くから営業を続けるホテルがある。 そのホテルには、昔から妙な噂があった。 ――「308号室だけは、やめておけ」 ある夜、一人の男性が仕事のため、そのホテルに宿泊することになった。 チェックインを済ませ、渡された鍵を見て、男性は少し驚いた。 「308号室……」 その瞬間、フロントの係員が一瞬だけ黙った。 「……あの、お客様」 「はい?」 「もし可能でしたら、別のお部屋に変更いたしましょうか?」 男性は笑った。 「どうしてですか?」 係員は答えなかった。 ただ、 「……いえ。失礼いたしました」 そう言って鍵を渡したという。 308号室。 部屋に入ると、そこには普通のビジネスホテルと何も変わらない光景が広がっていた。 男性は荷物を置き、コンビニで買ってきた弁当を机の上に置いた。 そして、そのまま眠りについた。 午前2時。 「……カサ……」 何かが床を擦るような音で、男性は目を覚ました。 暗闇の中、ベッドの下から音が聞こえる。 「カサ……カサ……」 怖くなった男性は、スマートフォンのライトを点けた。 しかし、何もない。 「気のせいか……」 そう思って再び横になろうとした、その時だった。 鏡の中に、 自分ではない「誰か」が映っている。 男性は息を止めた。 鏡の奥。 自分の背後に、黒い影が立っていた。 ゆっくり振り返る。 ――誰もいない。 再び鏡を見る。 今度は何も映っていなかった。 男性は震えながら布団に潜り込んだ。 その直後。 「……ハイ……ハイ……」 床を這うような音がした。 最初は小さかった。 しかし、少しずつ近づいてくる。 「ハイ……ハイ……」 男性は恐る恐る布団の隙間から床を見た。 そして―― 黒い顔をした赤ん坊が、床を這っていた。 しかも、その顔には、 二つの頭があるように見えた。 男性は声を出せなかった。 赤ん坊はゆっくりとこちらへ近づいてくる。 そしてベッドの横まで来ると、 ピタッと動きを止めた。 次の瞬間―― 「……おかあさん……」 小さな声が聞こえた。 男性は恐怖で目を閉じた。 数秒後。 恐る恐る目を開ける。 そこには何もいなかった。 ただ、床には一本の長い髪の毛が落ちていた。 男性は慌てて部屋を飛び出した。 翌朝。 フロントで昨夜の出来事を話すと、係員はしばらく黙っていた。 そして小さな声で、 ...

大阪・泉の広場――赤い服の女

大阪・梅田。 人々が行き交う巨大な地下街の一角に、かつて「泉の広場」と呼ばれる場所があった。 その名の通り、広場の中央には噴水があり、待ち合わせ場所として多くの人が利用していた。 だが、夜になると―― そこには、ある奇妙な噂があった。 「赤い服を着た女が現れる」 という噂だった。 ある会社員の男は、仕事帰りに泉の広場を通るのが日課になっていた。 いつものように地下街を歩いていると、広場の隅に、一人の女が立っているのが見えた。 赤い服。 長い髪。 そして、異様に青白い顔。 女は誰かを待っているようにも見えた。 男は最初、ただの通行人だと思った。 ところが―― 翌日も、その女はいた。 さらに翌日も。 いつ通っても、同じ場所に立っている。 しかも不思議なことに、女は誰とも話さない。 ただ、広場の中をゆっくり歩き回っているだけだった。 ある日の帰り道。 男が広場を通り過ぎようとした、その瞬間だった。 女が突然、こちらを向いた。 目が合った。 男は思わず足を止めた。 女の目は、まるで何年も眠っていない人間のように、虚ろだった。 そして女は、ゆっくりと男に近づいてきた。 一歩。 また一歩。 男は怖くなり、その場を離れた。 しかし―― 背後から、女の声が聞こえた。 「……ねえ」 男は振り返らなかった。 そのまま歩き続けた。 すると今度は、 「……私を見たよね?」 そう聞こえた。 男は走った。 地下街を抜け、地上へ出るまで、一度も振り返らなかった。 そして翌日。 男はいつものように会社へ向かった。 同僚に昨夜の出来事を話すと、同僚は顔を曇らせた。 「……その女、本当に赤い服だった?」 「ああ」 「じゃあ、もう泉の広場には近づかないほうがいい」 同僚によれば、昔から泉の広場では、 赤い服を着た女を見た という噂が何度も語られているという。 そして、その女と目を合わせた人間には―― 奇妙なことが起こる。 「何が起きるんだ?」 男が尋ねると、同僚は小さな声で答えた。 「……次に見たとき、女が自分のすぐ後ろにいるらしい」 男は笑って聞き流した。 しかし、その日の帰宅途中。 駅のホームで電車を待っていると―― ふと、ガラスに自分の姿が映った。 その後ろに―― 赤い服の女が立っていた。 男は振り返った。 誰もいない。 慌ててもう一度ガラスを見る。 やはり、誰もいない。 安心した、その瞬間。 耳...

千日デパート火災跡――「7階から降りてくる女」

大阪・千日前。 夜になっても人通りの絶えない、この賑やかな街には、かつて日本のビル火災史に残る大惨事があった。 1972年5月13日。 千日デパートで火災が発生し、7階のキャバレー「プレイタウン」にいた客や従業員らが煙に巻かれ、118人もの命が失われた。 それから長い年月が流れ、建物は姿を変えた。 現在、その場所を訪れても、かつての惨劇を思わせるものはほとんどない。 だが――。 ある夜、閉店後の店内で、奇妙な出来事が起きたという。 その日、若い男性店員が一人でエレベーターの点検をしていた。 時刻は午後10時を少し過ぎた頃。 「……上から降りてきます」 エレベーターの表示が、ゆっくりと数字を変えていく。 「8……7……」 店員は何気なく表示を見つめていた。 「6……5……」 その瞬間だった。 エレベーターが突然止まった。 扉が開く。 しかし、そこには誰もいない。 店員は首をかしげながら、閉ボタンを押した。 ところが――。 閉じかけた扉の隙間から、 「カツ……カツ……」 と、誰かが歩いてくるような音が聞こえた。 音はエレベーターの外からではない。 まるで、誰もいない箱の中から聞こえているようだった。 そして、耳元で女の声がした。 「……まだ、7階?」 店員は凍りついた。 この建物に、かつての7階が存在しているわけではない。 慌ててエレベーターを降り、同僚のところへ逃げた。 しかし、防犯カメラを確認しても、エレベーターの中には誰も映っていなかったという。 それから数日後。 別の店員が、閉店作業をしていた。 誰もいないはずの店内で、突然、 「助けて……」 という小さな声が聞こえた。 振り返る。 誰もいない。 すると今度は、天井のほうから、 「熱い……」 という声が聞こえた。 店員が上を見上げた、その瞬間。 照明が一斉に消えた。 真っ暗な店内。 そして――。 暗闇の向こうから、何人もの人間が走るような足音が聞こえてきた。 ドタドタドタ……。 ドタドタドタ……。 まるで、煙から逃げようとしている人々が、一斉に階段を駆け下りてくるような音だった。 店員は恐怖で動けなかった。 すると足音が、突然止まった。 静寂。 その直後、すぐ背後から女の声がした。 「……ここから、出られないの?」 店員は振り返らなかった。 ただ、震える手で非常口まで走り、外へ飛び出した。 後日、その話を聞いた年...