石手川ダム――水面に立つ人影
その話を聞いたのは、夏の終わりだった。 石手川ダムへ夜釣りに行ったことがあるという男性が、こんな話をしてくれた。 その日は友人と二人で、夜のダム湖を訪れていた。 時計は午前一時を少し回っていた。 昼間なら静かな水辺も、夜になると別の場所に見える。 周囲には街灯も少なく、車のライトを消すと、湖面と山の輪郭さえほとんど見えなかった。 「なんか……今日、変じゃないか?」 友人がそう言った。 「何が?」 「水の音がしない」 言われてみると、確かにおかしかった。 風はある。 木々もかすかに揺れている。 なのに、目の前の湖だけが異様なほど静かだった。 二人は黙って水面を見つめた。 そのときだった。 湖の中央付近に、何かが見えた。 最初は流木だと思った。 だが、それはゆっくりと動いていた。 「……人じゃないか?」 友人の声が震えた。 暗闇の中、水面に黒いものが立っている。 頭。 肩。 そして胸元。 遠くて顔までは見えない。 だが、どう見ても人の形だった。 「泳いでるのか?」 そう言って目を凝らした瞬間、その人影が少しだけこちらを向いた。 二人とも息を止めた。 その影は、水の中に浮かんでいるのではなかった。 まるで―― 水面の上に立っていた。 しかも、こちらを見ている。 「帰ろう」 友人が小さく言った。 二人は釣り道具をその場に置いたまま、車へ戻った。 エンジンをかけ、急いでその場を離れようとした。 ところが、車を動かした直後。 後部座席から、 「コン……」 と音がした。 二人は同時に振り返った。 誰もいない。 窓も閉まっている。 気のせいだと思い、車を走らせた。 しかし、しばらくするとまた、 「コン……コン……」 と鳴った。 今度は明らかに、車内からだった。 「止めるなよ」 友人が低い声で言った。 運転していた男性も、絶対に振り返らなかった。 そしてダムからかなり離れたところまで来たとき―― 突然、後部座席の窓が白く曇った。 外は蒸し暑い夏の夜。 車内のエアコンも普通に動いている。 なのに、その窓だけが内側から真っ白になった。 そして、その曇ったガラスに、 ゆっくりと五本の指の跡が浮かび上がった。 誰かが内側から、窓に手をついたように。 二人は何も言えなかった。 そのまま家まで帰り、車を降りた。 だが翌朝。 車を確認した男性は、後部座席の足元に濡れた跡が残っていることに気づいた。...