百道浜――海から伸びる手
その日は、仕事が終わるのが遅かった。 時計を見ると、もう夜の十一時を過ぎていた。 帰る前に少しだけ海を見ようと思い、車を百道浜の近くに停めた。 昼間なら人の多い場所だ。 海沿いには明かりもあり、遠くには福岡タワーの光も見える。 ところが、深夜になると印象がまるで違った。 波の音だけが、やけに大きく聞こえる。 俺は車を降り、海の方へ歩いていった。 砂浜の手前で立ち止まり、何気なく海を眺めた。 そのときだった。 沖の暗闇に、何か白いものが浮かんでいるのが見えた。 最初は、波に浮かぶゴミだと思った。 しかし、それは波に流されるのではなく、ゆっくりと上下していた。 よく見る。 白いものが、一つ。 二つ。 三つ。 ――いや。 もっとある。 暗い海面から、白いものが何本も突き出していた。 まるで、人間の腕のようだった。 俺は息を止めた。 波が引く。 すると、それらは一斉に海の中へ沈んだ。 「……なんだ、今の」 自分に言い聞かせるように呟いた。 見間違いだ。 そう思って車へ戻ろうとした。 その瞬間。 背後から、 ザブ……。 と、水を踏むような音がした。 振り返る。 誰もいない。 砂浜にも、遊歩道にも、人影はなかった。 だが、もう一度海を見ると―― 今度は、はっきり見えた。 海面から、何本もの腕が伸びている。 手だけが、こちらを向いている。 指を広げたり、閉じたりしながら、まるで誰かを呼んでいるように揺れていた。 俺は怖くなって走り出した。 そのときだった。 背後から、 「……待って」 小さな声が聞こえた。 足が止まりそうになった。 振り返ってはいけない。 頭の中で、そう思った。 それでも恐怖に負けて、ほんの一瞬だけ振り返った。 誰もいない。 ただ、海だけが見える。 そして―― 砂浜に、濡れた手形が並んでいた。 一つ。 二つ。 三つ。 海から陸へ向かって、まっすぐ続いている。 俺は夢中で車まで戻った。 ドアを開け、急いで乗り込む。 エンジンをかけようとした、そのとき。 助手席の窓を、 コン。 と叩く音がした。 俺は固まった。 窓の外を見る。 誰もいない。 もう一度、 コン。 今度はさっきより強い。 恐る恐る助手席を見る。 窓には、外側から押しつけたような手形が一つついていた。 しかも、その手形は―― 濡れていた。 俺はアクセルを踏み、百道浜を離れた。 その後、二度と夜の海へ行くこと...