道後温泉裏の木造廃墟――窓の向こうに立つ人
道後温泉の裏手には、細い路地や古い建物が残っている。 観光客が歩く表通りから少し離れると、急に人の気配が薄くなる場所がある。 その中に、昔から地元で「あまり近づかないほうがいい」と言われている木造の廃墟があった。 建物は二階建て。 外壁はところどころ剥がれ、窓ガラスも何枚か割れている。 長い間、人が住んでいる気配はなかった。 ある夜、友人と道後温泉に遊びに来ていた私は、帰り道にその建物を見つけた。 時刻は午前一時を少し過ぎた頃だった。 「こんなところに廃墟なんてあったんだな」 友人がスマートフォンのライトを向ける。 その瞬間だった。 二階の一番奥にある窓だけが、妙に気になった。 カーテンが閉まっていた。 だが、そのカーテンの隙間から、こちらを見ているような黒いものが見えた。 「……誰かいる?」 友人が呟いた。 私は笑って、 「まさか。廃墟だろ」 そう答えた。 しかし、もう一度見ると―― 黒いものは消えていた。 風でカーテンが揺れているだけだった。 その場を離れようとしたとき、建物の中から、 コン…… と、小さな音がした。 木の床を何かで叩いたような音だった。 私たちは顔を見合わせた。 そして、 コン…… もう一度。 今度は、さっきより近かった。 「やっぱり誰かいるんじゃないか?」 友人がそう言った直後、 二階の窓に、手が現れた。 白っぽい手だった。 指先だけがカーテンの隙間から見えている。 その手はゆっくりと動き、窓ガラスを、 コン…… コン…… と二回叩いた。 私たちは一瞬、声も出なかった。 すると突然、友人のスマートフォンが震えた。 着信だった。 画面を見ると、表示されていたのは―― 「非通知」 友人が電話に出る。 「もしもし?」 返事はなかった。 ただ、 ザー…… という雑音が聞こえていた。 そして、その雑音の奥から、 「……そこにいるの?」 女とも男とも分からない声が聞こえた。 友人はすぐに電話を切った。 「今の……聞こえた?」 私が尋ねると、友人は黙って頷いた。 その直後だった。 二階の窓のカーテンが、ゆっくり開いた。 そこには誰もいなかった。 暗い部屋が見えるだけだった。 だが、次の瞬間。 窓ガラスに、 内側から手形が浮かび上がった。 一つ。 二つ。 三つ。 まるで、部屋の中に何人もの人間がいて、一斉に窓へ手を押しつけているようだった。 私たちは逃げるよ...