鬼無里――夜の山から聞こえる女の声
長野県の山深くにある鬼無里。 周囲を山に囲まれたこの土地には、昔から不思議な伝説が残っている。 その中でも有名なのが、鬼女紅葉の伝説だ。 都からこの地へ流されてきた美しい女性、紅葉。 最初は村人たちに読み書きや都の文化を教え、慕われていたという。 しかし、やがて紅葉は鬼女となり、山へ消えていった。 そして最後には、朝廷から討伐の命を受けた平維茂によって退治された。 鬼無里という地名も、「鬼のいなくなった里」という意味から生まれたという。 もちろん、これは古くから伝わる伝説だ。 だが、地元ではこんな話も囁かれている。 夜の山で、今でも女の声を聞くことがある――と。 ある男性が、仕事の帰りに鬼無里を車で走っていた。 時刻は夜の十一時を過ぎていた。 昼間なら美しい山々が見える道だったが、夜になると周囲は真っ暗だった。 ヘッドライトの先に見えるのは、道路と木々だけ。 男性はラジオを消し、静かな山道を走っていた。 すると突然、 「……もしもし」 後部座席から、女の声がした。 男性は驚いて急ブレーキを踏んだ。 車内には誰もいない。 後部座席にも、人の姿はなかった。 「気のせいか……」 そう呟いて車を発進させる。 ところが数十メートル進んだところで、また聞こえた。 「……待って」 今度は、はっきり聞こえた。 男性は怖くなり、バックミラーを見た。 そこには―― 長い髪の女が座っていた。 顔は俯いていて、表情は見えない。 男性は声も出せず、アクセルを踏み込んだ。 すると女が、ゆっくり顔を上げた。 そして、 「都へ……帰りたい……」 そう呟いたという。 次の瞬間、車内の空気が一気に冷たくなった。 男性が前を見ると、道路の真ん中に一人の女が立っていた。 慌ててブレーキを踏む。 しかし、そこには誰もいない。 恐る恐る後部座席を見る。 やはり誰もいなかった。 ただ、座席には濡れた髪の毛が一本だけ落ちていた。 男性はその場から逃げるように山を下った。 後日、怖くなった男性が地元の人にその話をすると、 「夜の山では、女の声を聞いても返事をしないほうがいい」 そう言われた。 理由を尋ねると、その人はしばらく黙ったあと、 「昔から、山の中で女の声を聞いた人がいるんだ」 とだけ答えた。 そして最後に、こんな言葉を付け加えた。 「その声について行った人は、なかなか山から戻ってこない」 鬼無里には、今も鬼...