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千波公園――湖畔を歩く女

夜の千波公園を、ひとりで歩いていた。 昼間なら、ジョギングをする人や犬の散歩をする人で賑わう場所だ。 しかし、日付が変わる頃になると、湖の周囲から人の気配が消えていく。 その夜、男は湖畔の遊歩道をゆっくり歩いていた。 風はほとんどなかった。 それなのに―― 湖面だけが、一定の場所から小さく揺れている。 「……誰かいる?」 目を凝らすと、湖の向こう側に人影が立っていた。 白っぽい服を着た、女だった。 こちらに背を向け、じっと湖を見ている。 男は少し気味が悪かったが、遠目には普通の人にしか見えない。 そのまま歩き続けた。 すると、奇妙なことに気づいた。 湖を一周するように歩いているはずなのに、何度も同じ女を見かけるのだ。 最初は湖の反対側。 次に桜並木の近く。 そして三度目には―― 男のすぐ前にいた。 「……え?」 女は、数メートル先に立っていた。 さっきまで背中しか見えなかったはずなのに、今度は男のほうを向いている。 顔は長い髪に隠れていて、表情は見えない。 男は立ち止まった。 女も動かない。 ただ、風もないのに髪だけがゆっくり揺れている。 その瞬間。 女が小さな声で言った。 「……一緒に歩いてくれる?」 男は答えなかった。 怖くなり、来た道を引き返した。 しかし、背後から―― 「待って」 声がした。 振り返らない。 「ねえ」 また声がする。 それでも歩き続けた。 やがて公園の明るい場所まで戻り、ようやく振り返った。 誰もいなかった。 ほっとした男はスマートフォンを取り出し、時間を確認した。 午前0時47分。 そのとき、スマートフォンに一枚の写真が残っていることに気づいた。 見覚えのない写真だった。 湖畔を歩く自分の後ろ姿。 そして、そのすぐ後ろには―― 髪の長い女が立っていた。 写真を撮った覚えはない。 さらに恐ろしいことに、その写真には湖面が写っていた。 そこには男と女の姿が映っている。 だが、水面に映っていた女は―― 男の肩に手を置いていた。 それ以来、男は千波公園へ行っていない。 ただ、夜に湖畔を歩いた人の中には、今でもこんな話をする人がいる。 「湖を一周していると、同じ女と何度もすれ違うことがある」 そして最後に、必ずこう言うのだ。 「もし女に『一...

旧水戸市民会館――誰もいない客席

夜の水戸市を歩いていたとき、ふと旧水戸市民会館があった場所の近くを通った。 昼間なら人の行き交う場所だが、夜になると周囲は驚くほど静かだった。 旧市民会館は、かつて多くの市民が利用した場所だったという。大ホールでは数えきれないほどの公演が行われ、結婚式場としても使われていた。 しかし、東日本大震災によって建物は大きな被害を受け、その後、使用されなくなった。 その話を聞いた友人が、こんな噂を教えてくれた。 「夜になると、誰もいないはずの客席から拍手が聞こえるらしいよ」 もちろん、そんな話を信じるつもりはなかった。 ところがある夜、近くを歩いていると、 ――パチ……パチ……。 どこからか、小さな音が聞こえた。 最初は風の音だと思った。 だが、耳を澄ますと、それは明らかに拍手だった。 一人ではない。 何人もの人間が、遠くで静かに拍手をしている。 ――パチ、パチ、パチ……。 しかも、その音は一定の間隔で続いていた。 私は立ち止まり、周囲を見回した。 当然、そこには誰もいない。 それでも拍手だけは聞こえてくる。 不思議に思ってスマートフォンを取り出し、音のする方向へカメラを向けた。 すると、画面の奥に妙なものが映った。 暗闇の中に、ホールの客席のようなものが見えたのだ。 そして、その席には大勢の人影が座っていた。 誰も動いていない。 ただ全員が、こちらを見ている。 次の瞬間――。 一番前の席に座っていた人影が、ゆっくり立ち上がった。 すると、それを合図にするように、後ろの人影たちも次々と立ち上がっていく。 私は恐ろしくなり、スマートフォンを下ろした。 その瞬間、拍手が止まった。 静寂。 そして耳元で、はっきりと声がした。 「……まだ終わってませんよ」 振り返った。 誰もいない。 慌ててその場を離れ、家に帰った。 翌朝、スマートフォンを確認すると、昨夜撮影したはずの映像はすべて消えていた。 ただ一枚だけ、残っていた。 真っ暗な画面の中央に、古い客席が写っている。 そして、その客席の一番前に―― こちらを向いて座る人影が、一つだけ写っていた。 その人影の手元には、まるで今から拍手を始めるかのように、二つの手が重なっていたという。 それ以来、私は夜の旧市民会館周辺を歩かなくなった。 今でもあの場所を通るときだけは、できるだけ早く通り過ぎる。 なぜなら、静かな夜に耳を澄ますと―― 今...

姉さんビル――夜の階段

そのビルには、昔から妙な噂があった。 夜になると、誰もいないはずの階段から、女の足音が聞こえるという。 ――コツ、コツ、コツ。 ゆっくりと、一段ずつ上がってくる足音。 その場所を知る人たちは、その女性を「姉さん」と呼んでいた。 ある夜、私は友人と二人で、そのビルの前に立っていた。 時刻は午前一時を過ぎていた。 「本当に行くの?」 友人が小さな声で聞いてきた。 私は笑って、ビルの中へ入った。 内部は暗く、古びた階段には長い年月の埃が積もっていた。 一階から二階へ。 二階から三階へ。 何も起こらない。 ところが、三階に差しかかったときだった。 上の階から、かすかな音が聞こえた。 ――コツ。 二人とも足を止めた。 ――コツ、コツ。 誰かが階段を下りてくる。 「誰かいるのか?」 友人が声をかけた。 返事はない。 それでも足音だけは近づいてくる。 ――コツ、コツ、コツ。 やがて、階段の踊り場に人影が現れた。 長い髪の女だった。 顔は俯いていて、表情は見えない。 私たちは思わず後ずさった。 その女は、何も言わずにこちらへ近づいてくる。 そして、私の横を通り過ぎた。 すれ違った瞬間、耳元で小さな声がした。 「……まだ、上にいるよ」 振り返った。 しかし、そこには誰もいなかった。 友人の姿もない。 「おい……?」 呼びかけても返事がない。 慌てて階段を下りようとした、そのとき。 背後から、また足音が聞こえた。 ――コツ。 ――コツ。 ――コツ。 今度は、すぐ後ろだった。 私は振り返ることができなかった。 そして耳元で、女の声がした。 「……姉さんを置いていかないで」 その瞬間、ビルの中の電気が一斉に消えた。 翌朝、私はビルの外で一人で目を覚ました。 友人は少し離れた場所で倒れていた。 二人とも無事だった。 ただ、友人には一つだけ奇妙な記憶が残っていた。 「昨日さ……お前の後ろに、ずっと女の人がいたよな?」 私は何も答えられなかった。 なぜなら、私のスマートフォンに、昨夜撮った覚えのない写真が一枚残っていたからだ。 暗い階段。 その中央に、長い髪の女が立っている。 そして写真の端には、私たち二人の後ろ姿。 そのさらに後ろに―― もう一人、女が写っていた。 三人目の女は、カメラを見つめながら笑っていた。 その顔は、写真を撮った私にそっくりだった。

水戸市某廃アパート

水戸市の住宅街から少し外れた場所に、長いあいだ使われていない古いアパートがあった。 四階建ての小さな建物で、窓ガラスは何枚も割れ、外壁には黒い染みが広がっている。 地元では、そこを「近づかないほうがいい場所」と呼ぶ人もいた。 ある夏の夜、私は友人と二人で、その廃アパートを見に行った。 建物の中へ入ると、廊下には湿った空気がこもっていた。 一階、二階、三階。 特に変わったことはなかった。 ところが、四階へ上がったときだった。 廊下の一番奥にある部屋の前だけ、なぜか床が濡れていた。 雨は降っていない。 不思議に思いながら近づくと、部屋の中から、 「……コン、コン」 と小さな音が聞こえた。 誰かが壁を叩いているようだった。 友人が冗談半分に、 「まだ誰か住んでるんじゃない?」 と言った。 そして、その部屋のドアに手をかけた。 鍵はかかっていなかった。 ゆっくりドアを開ける。 部屋の中は真っ暗だった。 家具は何もなく、壁紙も剥がれ落ちている。 ただ、部屋の奥に古い姿見だけが残されていた。 その瞬間、友人が黙り込んだ。 「……なあ」 「どうした?」 「鏡、見てみろよ」 私は鏡を見た。 そこには、私たち二人が映っていた。 しかし、その後ろ。 廊下には誰もいないはずなのに、鏡の中にはもう一人、女の姿が立っていた。 長い髪で顔が隠れている。 私は反射的に振り返った。 当然、誰もいない。 もう一度鏡を見る。 女は、消えていた。 「帰ろう」 友人が震えた声で言った。 私たちは急いで部屋を出た。 階段を下りようとした、そのときだった。 四階の廊下の奥から、 「……コン、コン」 また音がした。 今度はさっきより近い。 そして、 「……コン、コン、コン」 少しずつ音がこちらへ近づいてくる。 私たちは一気に階段を駆け下りた。 外へ出てから、友人がスマートフォンを確認した。 すると、さっき撮った写真が一枚だけ残っていた。 四階の廊下を撮影した写真だった。 そこには、私たち二人の背後に、長い髪の女が立っていた。 そして写真を拡大すると、さらにおかしなものが写っていた。 女の足元。 そこには、濡れた足跡が続いていた。 四階の奥から、私たちのところまで。 だが、その足跡はそこで終わっていなかった。 写真の手前。 つまり、撮影している私たちの足元まで続いていた。 それ以来、私はその写真を見返していない。...

さしま少年自然の家――夜の廊下

その少年自然の家には、昔から妙な噂があった。 夜になると、誰もいない廊下から、子どもの足音が聞こえる。 「……トントン、トントン」 最初は、誰かがトイレに向かっているのだと思った。 だが、不思議なのはその足音だった。 廊下の端から聞こえてきたと思った次の瞬間には、すぐ後ろから聞こえる。 振り返っても、誰もいない。 ある夏の日、一人の少年が友達と宿泊していた。 消灯時間を過ぎ、部屋の中では全員が眠りにつこうとしていた。 そのときだった。 廊下から、 「……トントン、トントン」 という足音が聞こえた。 少年は隣の友達に小声で言った。 「誰か起きてるんじゃない?」 二人でそっとドアを開ける。 しかし、廊下には誰もいなかった。 ただ、突き当たりにある非常灯だけが、ぼんやりと光っていた。 「戻ろう」 そう言って部屋へ戻ろうとした、その瞬間。 廊下の奥から、今度ははっきりと声が聞こえた。 「……待って」 二人は凍りついた。 声は、子どものようだった。 怖くなった二人は、急いで部屋へ戻り、布団の中に潜り込んだ。 しばらくすると、また足音が聞こえてきた。 「トントン……トントン……」 今度は、どんどん近づいてくる。 そして―― 部屋の前で、足音が止まった。 二人は息を殺した。 ドアノブが、ゆっくりと動く。 カチャ…… しかし、鍵は閉まっている。 しばらく沈黙が続いた。 やがて、 「……ここじゃない」 小さな声が聞こえた。 そして足音は、ゆっくり遠ざかっていった。 翌朝。 少年が昨夜のことを先生に話すと、先生は少し困ったような顔をした。 「夜中に廊下へ出ちゃダメだよ」 それだけだった。 ところが、その日の夜。 少年は気になって、友達と昨日の廊下を見に行った。 そして、廊下の壁に貼られた古い案内板を見つけた。 そこには、宿泊室の配置が書かれていた。 二人は昨日、自分たちの部屋の前で聞こえた声を思い出した。 そして気づいた。 昨夜、声がした場所は―― 現在は使われていない部屋の前だった。 しかも、その部屋には宿泊室としての番号がなかった。 ただ一つ。 扉に、小さな紙が貼られていた。 そこには、 「立入禁止」 と書かれていた。 少年が扉を見つめていると、背後から、 「……トントン」 と音がした。 二人が振り返る。 誰もいない。 しかし、今度は扉の向こうから聞こえてきた。 「トントン……」 ...

千波湖――水面に立つ女

夜の千波湖を歩くときは、水面を見ないほうがいい。 地元では、そんな話をする人がいる。 ある夜、一人の男が千波湖の周りを歩いていた。 昼間とは違い、夜の湖は驚くほど静かだった。 街灯に照らされた遊歩道を進んでいると、ふと湖の中央付近に人影が見えた。 「……誰だ?」 目を凝らす。 湖の上に、女が立っていた。 腰まである長い髪。 白い服。 そして、こちらに背を向けたまま、じっと水面に立っている。 男は最初、何かの見間違いだと思った。 しかし、数秒後。 女がゆっくりと振り返った。 距離があるはずなのに、なぜか顔だけははっきり見えた。 女は笑っていた。 そして、口を動かした。 声は聞こえない。 だが、男には何と言っているのか分かった。 ――こっちに来て。 男は怖くなり、その場から逃げようとした。 ところが、背後から水の音がした。 振り返る。 誰もいない。 もう一度、湖を見る。 女の姿も消えていた。 安心して歩き出した、そのときだった。 ポケットの中のスマートフォンが震えた。 画面を見る。 そこには、見覚えのない写真が一枚送られていた。 写真に写っていたのは、夜の千波湖。 そして湖の中央に立つ女。 男は息をのんだ。 なぜなら、その写真は―― 男の背後から撮影されたものだった。 その瞬間、耳元で小さな声がした。 「……見つけた」 男が振り返る。 そこには誰もいなかった。 ただ、遊歩道のすぐ脇まで、湖の水が不自然に広がっていた。 翌朝。 湖畔には、男のスマートフォンだけが落ちていたという。 最後に撮影された写真には、暗い水面と、その水面から伸びた一本の白い手が写っていた。 それ以来、夜の千波湖では、ときどき湖の上に立つ女を見たという話が囁かれている。 そして、その女を見た人には共通していることがある。 女はいつも、こう言うのだという。 ―― 「今度は、あなたがこっちに来て」

水戸城跡――夜の城跡を歩く影

夜の水戸城跡を歩いていた。 昼間は学校や道路があり、人の気配も多い場所だが、日が落ちると空気が一変する。 城跡へ続く道を進んでいると、後ろから―― 「……カツ、カツ」 乾いた足音が聞こえた。 振り返る。 誰もいない。 気のせいだと思い、そのまま歩き続けた。 すると今度は、足音が自分の歩く速度に合わせてくる。 「カツ、カツ、カツ……」 立ち止まる。 足音も止まった。 少し怖くなり、早足でその場を離れようとした。 その瞬間だった。 すぐ耳元で、 「……待て」 低い男の声がした。 驚いて振り返る。 そこには誰もいない。 ただ、暗い城跡の道の先に、ぼんやりと人影が立っていた。 黒い服を着た男のように見える。 こちらをじっと見ている。 「誰ですか?」 声をかけても返事はない。 男はゆっくりとこちらへ歩いてくる。 一歩。 また一歩。 しかし、近づいてくるほど、その姿がおかしいことに気づいた。 足音がしない。 そして――足が地面についていなかった。 恐ろしくなって走り出した。 後ろを見ることはできなかった。 ただ、背後からずっと、 「カツ……カツ……」 という足音だけが追いかけてくる。 ようやく明るい場所まで逃げたところで、スマートフォンを見る。 時刻は午後11時。 そして、撮影していた動画を確認すると、奇妙なものが映っていた。 自分の背後、数メートルのところに―― 黒い人影が立っていた。 しかも、その影の顔だけが、こちらを向いていた。 動画を消そうとした、その瞬間。 スマートフォンから、聞き覚えのない声が流れた。 「……次は、逃げるな」 それ以来、夜になると、部屋の廊下から時々聞こえるという。 「カツ……カツ……」 まるで、あの城跡から誰かが帰ってきたかのように。

上高地別荘ホテル――誰もいない部屋

深い山の中に、かつて「上高地別荘ホテル」と呼ばれていた古い建物があった。 周囲には木々が生い茂り、建物は長い間、人の気配から遠ざかっていた。 ある夏の夜、肝試しに訪れた数人の若者が、その建物の中へ入った。 廊下には古びた絨毯が敷かれ、壁には剥がれかけた壁紙が残っている。 「ホテルだったなら、客室があるはずだ」 そう言って、一人が二階へ続く階段を上った。 二階には、いくつもの扉が並んでいた。 しかし不思議なことに、どの部屋も扉が少しずつ開いている。 一番奥の部屋だけが、固く閉ざされていた。 「ここだけ閉まってる……」 誰かがドアノブに手を掛けた。 その瞬間―― 中から、 コン……。 小さな音がした。 全員が黙り込んだ。 もう一度。 コン……コン……。 まるで、部屋の中から誰かが扉を叩いているようだった。 「誰かいるのか?」 返事はない。 恐る恐る扉を開ける。 そこには、何もなかった。 古いベッドと、埃をかぶった家具。 そして窓際に、古びた椅子が一脚置かれているだけだった。 「気のせいだろ」 そう言って部屋を出ようとした、そのとき。 背後から、 「……まだ、帰らないの?」 女の声がした。 全員が一斉に振り返った。 誰もいない。 しかし、さっきまで窓際にあった椅子が―― いつの間にか、部屋の中央に移動していた。 そして、その椅子の上には濡れた足跡が残っていた。 足跡は椅子から始まり、廊下へ続いている。 一行は慌てて階段を駆け下りた。 玄関まで来たところで、一人が人数を確認した。 「……一人、多くない?」 全員が凍りついた。 確かに、そこには自分たち以外の人影があった。 白い服を着た女性が、廊下の奥に立っている。 顔は長い髪に隠れている。 そして女性は、ゆっくりと手を上げた。 指差した先には―― 二階の、あの閉ざされた部屋。 「……忘れ物、置いていかないで」 その声を聞いた瞬間、建物全体から無数の扉が閉まる音が響いた。 バタン。 バタン。 バタン。 一行は一度も振り返らず、建物から逃げ出した。 翌朝。 もう一度現場を確認すると、二階の奥の部屋には新しい足跡が残っていた。 その足跡は部屋の中央で止まり、そこで突然消えていた。 そして、壁には昨日までなかったという文字が残されていた。 「次のお客様を、お待ちしています」 それ以来、その建物の近くを夜に通ると、誰もいないはずの二階...

偕楽園の「誰もいない梅林」

夜の偕楽園は、昼間とはまるで別の場所だった。 昼には観光客で賑わう梅林も、日が落ちると静まり返る。風が木々の間を抜けるたび、梅の枝が擦れる音だけが聞こえていた。 ある晩、写真を撮るために偕楽園を訪れた男がいた。 時刻は午後十時を過ぎていた。 「さすがに誰もいないな……」 そう呟きながら、男は園内を歩いていた。 すると、少し離れた梅の木の下に、人影が見えた。 白い服を着た女だった。 「こんな時間に?」 男が声をかけようと近づく。 しかし、女は背を向けたまま動かない。 不思議に思った男がカメラを向け、シャッターを切った。 ――カシャッ。 その瞬間、女がゆっくり振り返った。 顔は見えなかった。 長い髪が顔全体を覆っていたからだ。 男は気味が悪くなり、その場を離れた。 ところが、数十メートル歩いたところで、背後から声が聞こえた。 「……写真、撮った?」 男は振り返らなかった。 そのまま歩き続ける。 すると今度は、すぐ耳元で声がした。 「私も……写ってる?」 男は恐る恐るカメラの画面を確認した。 さっき撮った写真には、梅の木しか写っていなかった。 「なんだ……」 安心した男が次の写真を確認する。 そこには、遠くに立つ女の姿が写っていた。 そして、その写真を拡大した瞬間―― 男の手が止まった。 女の顔には、目も鼻も口もなかった。 ただ真っ黒な穴のようなものだけが、こちらを向いていた。 慌てて写真を消そうとした、そのとき。 カメラの画面に新しい写真が一枚増えた。 撮った覚えのない写真だった。 そこには、今いる場所を歩いている男自身の後ろ姿が写っていた。 そして、その背後には―― 白い服の女が立っていた。 男はゆっくり振り返った。 誰もいない。 しかし、梅の枝が一本だけ、不自然に揺れていた。 その夜以来、男は二度と偕楽園へ行かなかった。 後日、カメラに残っていた最後の写真を確認すると、そこには奇妙なものが写っていた。 男の背後に立っていた女の顔。 その口元だけが、はっきりと笑っていた。 写真の下には、撮影した覚えのない日時が表示されていた。 ――午前二時十三分。 男が偕楽園を訪れたのは、午後十時だった。 では、その写真は一体、 誰が、いつ撮ったのだろうか。

クイーンシャトー――誰もいないはずの部屋

深夜、車を走らせていた。 街の明かりが少なくなった頃、道路の先に、ひときわ異様な建物が見えてきた。 「……あれが、クイーンシャトーか」 長いあいだ使われていないような建物。 暗闇の中に立つその姿は、まるで周囲から切り離された別の世界のようだった。 車を止め、しばらく建物を眺めていると―― カタン。 どこからか、小さな音が聞こえた。 風の音だと思った。 しかし、その直後。 建物の上階にある窓のひとつが、ゆっくりと明るくなった。 「……誰かいる?」 電気が点いたように見えた。 だが、次の瞬間には消えている。 不思議に思いながら車へ戻ろうとした、そのときだった。 背後から、 「……ねえ」 女の声がした。 振り返る。 誰もいない。 辺りを見回しても、人影はなかった。 気のせいだ。 そう思って車に乗り込んだ。 エンジンをかけ、バックミラーを見る。 そこには、建物が映っていた。 そして―― さっきまで暗かった窓に、女が立っていた。 長い髪。 白い顔。 こちらをじっと見つめている。 「……!」 慌てて振り返る。 もちろん、窓には誰もいない。 もう一度ミラーを見る。 そこにも何も映っていなかった。 急いで車を走らせた。 しばらくして、ようやく落ち着きを取り戻した。 「見間違いだ……」 そう呟いた瞬間。 車の後部座席から、 コン…… と、何かを叩くような音がした。 コン……。 もう一度。 怖くて振り返ることができない。 そのままアクセルを踏み続けた。 やがて街灯の多い場所まで戻り、ようやく車を停めた。 恐る恐る後部座席を見る。 誰もいない。 ただ、座席の中央に―― 濡れた髪の毛が一本だけ落ちていた。 その夜以来、彼は二度とクイーンシャトーの近くへ行かなかった。 しかし数日後。 撮影した写真を整理していると、一枚だけ見覚えのない写真があった。 クイーンシャトーを撮影した写真だった。 窓はすべて真っ暗。 ところが、その写真を拡大すると―― 一番上の窓に、女の顔が写っていた。 そして写真の下には、撮影した覚えのない文字があった。 「次は、車の中じゃない場所で会おう」 その瞬間、部屋の電気が消えた。 真っ暗な部屋の中で、 コン…… コン…… と、窓を叩く音が聞こえた。