新日見トンネル――「引っ張られる」
長崎の山道を抜ける新日見トンネルには、昔から妙な噂があった。 「夜中に一人で通るな」 理由を聞いても、地元の人間は詳しく話そうとしない。 ただ、決まってこう言うのだ。 「トンネルの中で、急にハンドルが重くなったら……絶対に止まるな」 ある夏の深夜。 仕事帰りの男が、一人で車を走らせていた。 時刻は午前二時過ぎ。 交通量はほとんどなく、周囲は真っ暗だった。 男は新日見トンネルへ入った。 「……長いな」 トンネルの照明が、一定の間隔でフロントガラスを照らしていく。 一つ。 二つ。 三つ。 そのときだった。 ――グッ。 突然、車のハンドルが右へ引っ張られた。 「え?」 男は慌ててハンドルを戻した。 だが、数秒後。 ――グッ。 今度は、明らかに誰かがハンドルを掴んでいるような感触だった。 車が少しずつ右側へ寄っていく。 「なんだよ……」 男は力いっぱいハンドルを握った。 すると、助手席から小さな声が聞こえた。 「……止まって」 男の顔が凍りついた。 助手席には誰もいない。 「今……誰?」 返事はない。 そして次の瞬間。 後部座席から、 ――コン。 と、音がした。 誰かが窓を叩いたような音だった。 男はバックミラーを見た。 何もいない。 もう一度。 ――コン。 今度は反対側。 「やめろ……」 男はアクセルを踏み込んだ。 その瞬間、後部座席から、 「……乗せて」 女の声がした。 男は振り返らなかった。 ただアクセルだけを踏み続けた。 やがてトンネルの出口が見えた。 「助かった……」 そう思った瞬間だった。 ハンドルが突然、強烈な力で右へ引っ張られた。 ――ガクッ! 車が車線を外れる。 「うわっ!」 男は必死にハンドルを戻した。 そして、その瞬間。 バックミラーに女の顔が映った。 長い髪。 青白い顔。 そして―― 首を異様な角度に曲げたまま、男をじっと見つめている。 女は口を開いた。 声は聞こえなかった。 しかし、男には何を言っているのか分かった。 「……まだ、降りないで」 男は絶叫した。 車はなんとかトンネルを抜けた。 そして、数百メートル走ったところで急停車した。 震える手でバックミラーを見る。 そこには誰もいなかった。 「夢だ……」 男はそう呟いた。 だが、助手席を見ると、 シートが濡れていた。 まるで―― 誰かが、ずっとそこに座っていたように。 翌朝。 男は車を確認した。...