大崩海岸――海から聞こえる声
静岡県の大崩海岸。 その名前の通り、切り立った崖と海が隣り合うこの場所には、昔から地元の人たちの間で、奇妙な噂が囁かれていた。 「夜の海から、名前を呼ばれても返事をするな」 そう言われる理由を、詳しく知る人は少なかった。 ある夏の夜、一人の男性が車で大崩海岸を訪れた。 海沿いの道を走っていると、周囲には街灯も少なく、窓の外は真っ暗だった。 やがて男性は、海を見渡せる場所に車を止めた。 エンジンを切ると、聞こえてくるのは波の音だけ。 ザア……ザア……。 しばらく海を眺めていると、突然、波の音に混じって小さな声が聞こえた。 「……ねえ」 男性は思わず振り返った。 しかし、車内には誰もいない。 気のせいだと思い、再び海へ視線を戻す。 すると今度は、はっきりと聞こえた。 「……こっち」 声は海のほうからだった。 男性が恐る恐る窓を開ける。 その瞬間、冷たい風が車内へ入り込んできた。 そして、波打ち際に何かが立っているのが見えた。 人のようだった。 白っぽい服を着た誰かが、暗い海の中に立っている。 男性は目を凝らした。 だが、次の瞬間―― その姿が消えた。 波だけが静かに打ち寄せている。 怖くなった男性は、すぐに車を発進させようとした。 しかしエンジンがかからない。 何度キーを回しても、車は動かなかった。 そのときだった。 後部座席から、 「……どうして帰るの?」 という声がした。 男性の身体が凍りついた。 ゆっくりとバックミラーを見る。 そこには、誰もいない。 ところが、ミラーの端にだけ、濡れた長い髪が映っていた。 まるで、誰かが後部座席からこちらを覗き込んでいるようだった。 男性は振り返ることができなかった。 すると耳元で、もう一度声がした。 「海に……来て」 その直後、エンジンが突然かかった。 男性はアクセルを踏み込み、その場から逃げ出した。 家に戻ったあとも、男性はしばらく恐怖で眠れなかった。 しかし翌朝、車を確認すると、さらに奇妙なものを見つけた。 車の後部座席が、濡れていたのだ。 雨は降っていなかった。 しかも、シートの上には砂と、小さな貝殻がいくつも落ちていた。 そして窓ガラスには、内側から指でなぞったような跡が残っていた。 そこには、たった一言だけ書かれていた。 「またね」 それ以来、男性は二度と大崩海岸へ近づいていないという。 大崩海岸には、今も海と断崖が続...