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千代田湖――湖面に立つ女

山梨県甲府市の山あいに、千代田湖という静かな湖がある。 昼間は釣りをする人や、周辺を散策する人もいる場所だが、夜になると辺りは驚くほど静かになる。 これは、そんな千代田湖で起きたという、ある奇妙な話だ。 ある男性が、友人と二人で夜の千代田湖を訪れた。 時間は深夜を回っていた。 車を湖の近くに止め、二人で外に出ると、山の中には風の音しか聞こえなかった。 「思ったより静かだな」 友人がそう言った直後だった。 湖のほうから、 ――ポチャン。 と、水面を叩くような音が聞こえた。 二人は同時に湖を見る。 しかし、何もいない。 「魚じゃない?」 そう言って気にせず話していると、また、 ――ポチャン。 今度はさっきより近い。 男性が懐中電灯を湖面に向けた。 すると、湖の中央付近に、何かが立っているように見えた。 最初は木の枝かと思った。 だが、よく見ると、それは人の姿だった。 白っぽい服を着た女が、湖の上に立っている。 「……人?」 友人が呟いた。 その瞬間、女の顔がゆっくりとこちらを向いた。 距離があるため、顔までは見えない。 それなのに、なぜか男性には、その女が自分たちを見ているとはっきり分かった。 二人は急いで車へ戻った。 エンジンをかけ、湖から離れようとした、その時。 車の後部から、 ――コン、コン。 と音がした。 「今の何?」 二人とも黙った。 ――コン、コン。 また鳴った。 まるで、誰かが車の後ろから窓を叩いているようだった。 怖くなった男性は、そのまま車を走らせた。 しばらく山道を下ったところで、ようやく二人は口を開いた。 「さっきの女……」 友人が言葉を止めた。 「何?」 「湖にいた時より……近くにいた気がする」 男性はバックミラーを見た。 そこには、暗い山道だけが映っていた。 しかし、その後。 自宅に戻った男性が車を確認すると、後部座席の窓に、内側から押しつけたような水滴の跡が残っていたという。 もちろん、車内には誰もいない。 そして、その水滴の跡は、人の手の形をしていた。 それ以来、男性は夜の千代田湖には二度と近づいていないという。 千代田湖で見たものが、本当に人だったのか。 それとも、夜の山と湖が生み出した錯覚だったのか。 今となっては、確かめることはできない。 ただ、夜の静かな湖面を眺めていると、 水の中から誰かがこちらを見ているような気がする――。 そん...

太良峠――夜道に立つ女

山梨県甲府市と山梨市の境にある太良峠。 昼間は静かな山道だが、夜になると街灯も少なく、周囲は深い闇に包まれる。 これは、ある男性が深夜に太良峠を車で通ったときの話だ。 その日は仕事が遅くなり、男性が峠道に入ったのは午前1時を過ぎた頃だった。 車のライトだけを頼りに、曲がりくねった道を進んでいく。 しばらくすると、前方に人影が見えた。 「こんな時間に……?」 男性はそう思いながら、速度を落とした。 そこに立っていたのは、白い服を着た女性だった。 女性は道路の端に立ったまま、じっとこちらを見ている。 男性は怖くなりながらも、そのまま通り過ぎようとした。 その瞬間―― 女性が突然、車のほうへ顔を向けた。 そして、ゆっくりと手を上げた。 まるで車を止めようとしているようだった。 男性は急いでアクセルを踏み、その場を通り過ぎた。 バックミラーを見ることはできなかった。 ただ、なぜか背後に誰かがいるような気配を感じていた。 数分走ったところで、ようやく男性は落ち着きを取り戻した。 そして信号のない山道で、ふとバックミラーを見た。 ――誰もいない。 「見間違いだったのか……」 そう思った、その直後だった。 後部座席から、 コン…… と、小さな音がした。 男性は凍りついた。 もう一度、 コン…… 今度は、はっきり聞こえた。 まるで誰かが車内から窓を叩いているような音だった。 怖くて振り返ることができない。 そのまま車を走らせ、ようやく明るい場所までたどり着いた。 男性はそこで車を停め、恐る恐る後部座席を確認した。 当然、誰もいない。 しかし―― 後部座席の窓には、内側から触れたような白い手形が残っていたという。 男性はその後、二度と深夜の太良峠を通らなくなった。 そして今でも、あの夜に見た女性が何者だったのかは分からない。 ただ、太良峠では昔から、夜道で人影を見たという噂がある。 もし深夜、この峠を車で通ることがあっても―― 道路脇に立つ人影には、決して近づかないほうがいい。 それが本当に「人」なのかどうかは、誰にも分からないのだから。

金峰山――五丈石の向こう側

その男が金峰山を訪れたのは、夏の終わりだった。 登山口から歩き始めたのは、昼を少し過ぎた頃。 最初は何も変わったことはなかった。 深い森の中を進み、やがて大日岩を越える。 さらに先へ進むと、周囲の景色は次第に荒々しくなり、岩場が増えていった。 そして、千代ノ吹上に差しかかった頃だった。 突然、風が止んだ。 さっきまで木々を揺らしていた風が、嘘のように消えている。 男は足を止めた。 静かすぎる。 聞こえるのは、自分の呼吸と靴が岩を踏む音だけ。 そのとき―― 「……待って」 背後から、小さな声がした。 男は振り返った。 誰もいない。 登山道の先にも、人影はなかった。 気のせいだと思い、再び歩き始める。 しかし数十メートル進んだところで、 「……待ってって」 今度は、はっきり聞こえた。 しかも声は、すぐ後ろからだった。 男は恐る恐る振り返った。 やはり誰もいない。 ただ、霧のような白いものが登山道の向こうから流れてきていた。 男は急いで先へ進んだ。 しばらくすると、木々の向こうに巨大な岩が見えてきた。 五丈石だった。 その姿を見た瞬間、なぜか男は安心した。 「もう少しだ」 そう呟いた。 だが、そのときだった。 五丈石の前に、誰かが立っている。 白い服を着た人影だった。 男は登山者だと思った。 「こんにちは」 声をかけた。 しかし、人影は動かない。 近づいてみる。 すると、その人物は五丈石の方を向いたまま、こちらに背を向けて立っていた。 男が横を通り過ぎようとした瞬間―― 「上を見ないで」 女の声がした。 男は思わず足を止めた。 「……え?」 すると女は、ゆっくり振り返った。 顔が見えない。 髪が異様に長く、顔全体を隠している。 そして、小さな声で言った。 「上を見たら、帰れなくなるよ」 男は意味が分からなかった。 だが、その言葉を聞いた瞬間、背筋が凍った。 それでも男は、なぜか五丈石を見上げてしまった。 その瞬間―― 岩の上に、何かがいた。 人間のようなものが、こちらを見下ろしている。 男は息を呑んだ。 次の瞬間、目の前にいた女の姿が消えた。 そして、 「……一緒に帰ろう」 耳元で声がした。 男は叫び声を上げ、夢中で登山道を引き返した。 途中で何度も転びそうになりながら、とにかく山を下った。 ようやく登山口に戻った頃には、すっかり日が暮れていた。 駐車場には自分の車だけが...

甲府城跡――石垣の向こうに立つ女

夜の甲府城跡は、昼間とはまるで違う顔を見せる。 昼間は観光客の姿もあり、石垣や天守台を眺めながら歩くことができる場所だ。 しかし、日が落ちると人の気配は急に少なくなる。 これは、そんな夜の甲府城跡を訪れた男性の話である。 ある晩、男性は一人で城跡を歩いていた。 特に目的があったわけではない。 静かな場所を歩きながら、夜景を眺めようと思っただけだった。 石垣の間を進んでいると、突然―― 「……すみません」 背後から女の声が聞こえた。 男性が振り返る。 しかし、そこには誰もいない。 気のせいだと思い、そのまま歩き続けた。 すると今度は、すぐ耳元で、 「どこへ行くんですか……?」 と聞こえた。 男性は驚いて振り返った。 その瞬間、石垣の向こう側に、白い服を着た女が立っているのが見えた。 長い髪で顔はよく見えない。 男性が声をかけようとした、その時だった。 女がゆっくりと石垣の陰へ移動した。 「あれ?」 男性は後を追った。 しかし、石垣の向こうには誰もいない。 その代わり、足元に妙なものが落ちていた。 濡れた髪の毛だった。 男性は気味が悪くなり、その場を離れようとした。 ところが―― 背後から、また声がした。 「……見つけた」 男性が振り返る。 そこには先ほどの女が立っていた。 今度は顔が見えた。 女は笑っていた。 しかし、その顔には目も鼻もなかった。 ただ、真っ黒な穴だけが二つ開いていた。 男性は夢中で走った。 石段を下り、城跡の外へ飛び出した。 しばらくして振り返ると、誰も追ってきてはいなかった。 ほっとした男性は、そのまま帰宅した。 そして翌朝。 昨夜撮影した写真を確認していると、一枚だけ奇妙な写真があった。 石垣を撮影した写真。 そこには誰も写っていない。 ただ、石垣の隙間から―― 白い女の顔だけが、こちらを覗き込んでいた。 そして写真を拡大すると、女の口元に小さく文字のようなものが写っていた。 「また、夜に来てね」 男性はそれ以来、甲府城跡には二度と近づかなかったという。

西甲府病院跡――誰もいない病室

山梨県に、かつて病院として使われていた建物があった。 現在ではその姿を見ることはできないが、そこには昔から、妙な噂が残っている。 「夜になると、誰もいないはずの病室からナースコールが鳴る」 そう聞いたのは、ある男性が友人と廃墟を訪れたときのことだった。 二人が建物の近くまで来たのは、日付が変わる少し前だった。 昼間に見ると、ただ古びた建物にしか見えない。 しかし夜になると雰囲気が一変した。 窓は黒く、建物の内部は完全な闇。 二人が懐中電灯を照らしながら中へ入ると、長い廊下が続いていた。 壁には、かつて病室だったことを思わせる跡が残っている。 そのときだった。 「……ピン」 廊下の奥から、小さな音がした。 二人は足を止めた。 もう一度。 「ピン……」 病院で使われていたような、ナースコールの音だった。 「誰かいるのか?」 友人が声をかけた。 返事はない。 それでも二人は音のした方向へ進んだ。 やがて、一つの病室の前にたどり着いた。 扉は半開きだった。 懐中電灯を向ける。 中には何もない。 古びた床と壁。 そして、壁の一部に残った古いナースコールの跡だけだった。 「気のせいだろ」 そう言って戻ろうとした瞬間―― 背後から、 「ピン……」 また音がした。 二人が振り返る。 すると、さっきまで誰もいなかった病室の奥に、 白い人影が立っていた。 顔は見えない。 ただ、こちらを向いている。 二人は何も言わず、一目散に廊下を走った。 出口まであと少し。 そのとき、建物中から一斉に音が鳴り始めた。 「ピン……」 「ピン……」 「ピン……」 まるで、何十人もの患者が同時にナースコールを押しているようだった。 二人は振り返らず、建物の外へ飛び出した。 そして車に乗り込み、急いでその場を離れた。 翌日。 男性は撮影した写真を確認した。 すると、最後に撮った一枚だけがおかしかった。 暗い病室の写真。 その中央に、白い服を着た人物が立っている。 そして、その人物の横には、 もう一人。 さらにその奥にも、 何人もの人影が写っていた。 男性は慌てて写真を削除した。 しかし、それ以来だった。 夜、部屋で一人になると、 時々、どこからともなく聞こえてくる。 「ピン……」 まるで、今も誰かが、 誰もいない病室から助けを求めているかのように。

武田神社――夜の参道に立つ男

山梨県甲府市にある武田神社。 ここは戦国武将・武田信玄を祀る神社として知られ、昼間は多くの参拝客が訪れる場所だ。 しかし、日が落ちて人の気配がなくなると、境内は昼間とはまったく違う空気に包まれるという。 これは、ある男性が体験した話だ。 数年前の秋、その男性は仕事で甲府を訪れていた。 帰りが遅くなり、ホテルへ戻る前に武田神社へ立ち寄ることにした。 時刻は夜の八時を過ぎていた。 境内にはほとんど人がいない。 男性が参道を歩いていると、前方に一人の男が立っているのが見えた。 黒っぽい服を着て、背中を向けたまま動かない。 「こんな時間に参拝している人もいるんだな」 そう思いながら、男性はその横を通り過ぎた。 ところが―― 数歩進んだところで、背後から声が聞こえた。 「……戻れ」 小さな声だった。 男性は振り返った。 しかし、そこには誰もいない。 さっきまで立っていた男の姿も消えていた。 不思議に思いながらも、男性はそのまま歩き続けた。 すると今度は、前方にさっきの男がいる。 同じ服。 同じ場所。 そして、やはり背中を向けて立っている。 男性は怖くなり、今度は近づかずに脇道へそれた。 その瞬間だった。 「……戻れ」 また、背後から声がした。 男性は走って境内を出た。 そして駐車場まで戻り、車に乗り込んだ。 エンジンをかけようとしたところ、バックミラーに何かが映った。 後部座席に―― 誰かが座っている。 男性は反射的に振り返った。 もちろん、誰もいない。 だが、後部座席には泥のようなものが付いた足跡が残っていた。 しかも、その足跡は一つだけではなかった。 後部座席から運転席のすぐ後ろまで、濡れた足跡が続いていたという。 男性はその夜、武田神社には二度と近づかなかった。 後になって地元の知人にこの話をすると、 「夜の神社では、あまり奥まで入らないほうがいい」 そう言われた。 そして最後に、こんな言葉を付け加えたという。 「武田神社は、昼間に行く場所だよ」 それ以来、男性は夜の神社を見ると、あの参道に立っていた男を思い出すという。 あの男が何者だったのか。 そして、なぜ「戻れ」と告げたのか。 今となっては、誰にも分からない。

昇仙峡――渓谷に響く女の声

山梨県にある昇仙峡は、切り立った岩壁と清流が続く、美しい景勝地として知られている。 昼間は観光客も多く、遊歩道を歩けば、川のせせらぎや鳥の声が聞こえてくる。 しかし、日が落ちると、その印象は大きく変わる。 これは、以前、昇仙峡を訪れた男性から聞いた話だ。 男性が友人と二人で昇仙峡を訪れたのは、秋の終わり頃だった。 観光を終えた二人は、もう少し渓谷を見ていこうと、夕方になってもその場に残っていた。 周囲には、まだ人の姿があった。 ところが、気がつくと、いつの間にか二人以外の観光客がいなくなっていた。 「そろそろ帰ろうか」 そう言って歩き始めた、その時だった。 川の向こう側から、 「……すみません」 という女の声が聞こえた。 二人は足を止めた。 声がした方向を見る。 だが、そこには誰もいない。 「今、女の人いたよな?」 友人に聞くと、友人も小さくうなずいた。 気のせいだろうと思い、そのまま歩き始めた。 すると今度は、さっきより近くから、 「待って……」 と聞こえた。 二人は振り返った。 しかし、やはり誰もいない。 ただ、薄暗い遊歩道と、岩の間を流れる川が見えるだけだった。 急に怖くなった二人は、足早に駐車場へ向かった。 すると、後ろから―― 「……待って」 また女の声がした。 今度は、すぐ背後から聞こえたという。 男性は振り返ることができなかった。 隣にいた友人も、黙ったまま歩き続けている。 そして駐車場に着いた瞬間、友人が言った。 「……さっきから、女の人がずっと後ろを歩いてた」 男性は凍りついた。 「見たのか?」 そう聞くと、友人は首を横に振った。 「顔は見てない。でも、足音がずっと三人分だった」 二人は急いで車に乗り込み、その場を離れた。 その後、男性は昇仙峡について調べたが、あの日聞いた声の正体は分からなかったという。 ただ、それ以来、男性は夕方以降の渓谷には近づかなくなった。

愛宕トンネル ―「後ろの車」

深夜0時を少し過ぎた頃だった。 仕事帰りの男は、甲府市内から自宅へ向かうため、愛宕トンネルを車で通っていた。 昼間なら何度も通ったことのある、何の変哲もないトンネルだった。 しかし、その日は妙に静かだった。 トンネルへ入る。 「……長いな」 いつもより距離が長く感じる。 バックミラーを見ると、後ろから一台の車がついてきていた。 白っぽい古い乗用車だった。 男は気にせず、そのまま走った。 ところが、トンネルの中央付近まで来たところで、後ろの車が突然ハイビームを点滅させた。 「なんだよ……」 煽られていると思った男は、少し速度を上げた。 それでも後ろの車は一定の距離を保ったまま、ついてくる。 そして出口が近づいてきた。 男はバックミラーを見た。 ――車がいない。 「……え?」 さっきまで確かにいた。 慌ててもう一度見る。 やはり、誰もいない。 男は首をかしげながらトンネルを抜けた。 そして赤信号で停車したときだった。 後部座席から、 「コン……」 小さな音がした。 男は固まった。 もう一度。 「コン……コン……」 まるで、誰かが内側から窓を叩いている。 恐る恐るバックミラーを見る。 後部座席には誰もいない。 「気のせいだ……」 そう呟いて、信号が青になるのを待った。 その瞬間。 カーナビの画面が突然消えた。 そして、真っ黒になった画面に、後部座席の様子が反射して映った。 男は息を呑んだ。 そこには―― 白い服を着た女が座っていた。 女は俯いている。 顔は見えない。 男は振り返れなかった。 アクセルを踏み、夢中で走った。 しばらくして、恐る恐るバックミラーを見る。 女はいなくなっていた。 だが、その代わりにミラーの端に、 さっきの白い車が映っていた。 男は震えながら車を停めた。 後ろを確認する。 誰もいない。 白い車もない。 ただ、後部座席の窓には、 内側から指でなぞったような跡が残っていた。 そこには、ひらがなで一文字だけ書かれていた。 「かえして」 男は何を返せと言っているのか分からなかった。 その後、男は二度と深夜に愛宕トンネルを通らなくなった。 しかし数週間後。 車を点検に出した整備士から、妙なことを言われた。 「この車、後ろのドア……最近ぶつけました?」 「いや、そんな覚えはありません」 整備士は首を傾げた。 そして、後部座席のドアを指差した。 そこには外側から...

押切処刑場跡 ――「数えてはいけない足音」

深夜、男は一人で押切処刑場跡を訪れた。 ここには昔、罪人の処刑が行われていた――。 そう聞いたことがあった。 「まあ、昔の話だろ」 男はそう呟き、スマートフォンのライトを頼りに、暗い道を歩いていった。 午前一時を過ぎると、周囲には車の音も人の声もない。 聞こえるのは、風で木の葉が擦れる音だけだった。 そのとき。 ――コツ。 背後から、小さな足音がした。 男は振り返った。 誰もいない。 「……気のせいか」 再び歩き始める。 ――コツ。 また一歩。 今度は、はっきり聞こえた。 男が一歩進む。 ――コツ。 背後も一歩。 男が止まる。 ……足音も止まった。 「誰かいるのか?」 返事はない。 男は怖くなり、スマートフォンのライトを後ろへ向けた。 そこには、暗闇しかなかった。 そして、もう一度前を向いた瞬間だった。 ――コツ。 今度は、すぐ耳元で足音がした。 男は反射的に走り出した。 しかし、走っても走っても、背後の足音は離れない。 ――コツ、コツ、コツ、コツ。 足音が増えていく。 一人ではない。 二人。 三人。 いや、それ以上。 まるで暗闇の中から、何人もの人間が一斉に男を追ってくるようだった。 男は振り返らなかった。 振り返ってはいけない。 なぜか、そんな気がした。 ようやく明るい道路が見えた。 男は必死に走り、車へ飛び乗った。 エンジンをかけ、すぐにその場を離れた。 しばらく走ってから、男は震える手でスマートフォンを確認した。 すると、さっき撮影したはずの動画が一つだけ残っていた。 再生してみる。 映っているのは、暗い処刑場跡。 男自身の後ろ姿。 そして、その背後に―― 何人もの人影が立っていた。 全員、こちらを向いている。 男は画面を止めた。 その瞬間。 スマートフォンから、かすかな声が聞こえた。 「……次は、お前が数えろ」 男は慌ててスマートフォンを放り投げた。 しかし、その夜からだった。 自宅に帰っても、毎晩決まった時間になると―― 玄関の外から、 ――コツ。 一つ。 ――コツ。 二つ。 ――コツ。 三つ。 足音が聞こえるようになった。 そして四つ目の足音が聞こえたとき。 必ず、玄関の向こうから声がする。 「……あと一人」 男は今でも、その声を聞くたびに思う。 あの夜、最後まで振り返らなかった自分は―― 本当に、一人だったのだろうか。

山崎刑場跡――「振り返るな」

深夜0時を少し回ったころだった。 甲府の街を車で走っていた俺たちは、以前から気になっていた山崎刑場跡へ向かっていた。 「本当にここ?」 友人の佐々木が、スマホの地図を見ながら言った。 車を止めると、周囲は驚くほど静かだった。 街中に近いはずなのに、そこだけ空気が違う。 少し歩くと、暗闇の中に供養碑が見えた。 「ここが……刑場跡か」 俺がそう呟いた瞬間だった。 ――カン。 背後から、金属を叩いたような音がした。 二人とも振り返った。 しかし、誰もいない。 「今の聞いた?」 「……聞いた」 気のせいだと思い、そのまま碑の前まで歩いた。 すると佐々木が突然立ち止まった。 「なあ……あそこ」 指差した先。 道路脇の暗闇に、男が立っていた。 黒っぽい服。 顔は俯いていて見えない。 「誰かいるじゃん」 俺が声をかけようとした、その瞬間。 男がゆっくり顔を上げた。 街灯の光が顔を照らす。 だが―― 顔が、なかった。 目も鼻も口もない。 ただ、真っ黒な顔がこちらを向いていた。 「走れ!」 佐々木が叫んだ。 俺たちは夢中で道路へ戻った。 車まであと数十メートル。 そのとき、背後から声がした。 「……まだ……終わってない」 足が止まりそうになった。 だが、振り返らなかった。 車に飛び乗り、エンジンをかける。 そのまま一気に走り去った。 しばらくして、佐々木が震える声で言った。 「なあ……お前、さっき録音してた?」 「いや」 「じゃあ、これ何?」 スマホの録音画面を見せられた。 俺たちが刑場跡へ向かっているときの音声だった。 そこには、俺と佐々木の声しか入っていない。 ……はずだった。 再生してみる。 『ここが……刑場跡か』 俺の声。 その直後。 小さな男の声が入っていた。 『……帰れない』 俺たちは顔を見合わせた。 そして、最後まで聞いた。 録音の最後。 車に乗り込む直前の数秒間。 俺たちの足音に混じって―― もう一人分の足音が聞こえていた。 タッ。 タッ。 タッ。 そして車のドアを閉めた瞬間。 録音の中で、男がはっきりと言った。 『……一人、置いていくな』 その言葉を聞いた瞬間、車内の後部座席から、 ――コン。 小さく窓を叩く音がした。 俺たちは、ゆっくりとバックミラーを見た。 誰もいない。 ただ、後部座席の窓には、 内側から押しつけたような、一本の手形が残っていた。 翌朝、俺はもう...