荒沼の怖い話――沼から聞こえる声
山形の山あいにある荒沼。 昼間は静かな水面が広がり、周囲には木々が生い茂っている。 しかし、日が落ちると、あたりは驚くほど静かになる。 これは、ある男性が荒沼を訪れたときの話だ。 男性が荒沼に着いたのは、夜の八時を少し過ぎたころだった。 「せっかくだから、夜の沼を見てみよう」 そう思い、懐中電灯を片手に湖畔を歩いていた。 すると――。 「……こっち」 突然、誰かの声がした。 男性は足を止めた。 周囲には誰もいない。 気のせいだと思って歩き出す。 しかし、しばらくすると、また聞こえた。 「……こっちに来て」 今度は、はっきり聞こえた。 声がしたのは、沼の方だった。 男性が懐中電灯を向ける。 そこには、真っ暗な水面があるだけだった。 ところが、その瞬間。 水面の中央に、小さな波紋が広がった。 風は吹いていない。 男性は怖くなり、引き返そうとした。 そのときだった。 背後から、 「どうして帰るの?」 と、耳元で声がした。 男性は振り返った。 誰もいない。 だが、懐中電灯を下に向けた瞬間、男性は凍りついた。 泥の上に――。 濡れた裸足の足跡が並んでいた。 しかも、その足跡は沼から続いてきていた。 男性は無我夢中で車まで走った。 そしてエンジンをかけようとしたとき、バックミラーを見た。 後部座席には誰もいない。 ……はずだった。 鏡の端に、長い髪のようなものが映っていた。 男性が振り返る。 何もない。 もう一度ミラーを見る。 そこには、誰かの顔が映っていた。 濡れた髪が顔に張り付き、真っ黒な目でこちらを見ている。 そして、その口がゆっくり動いた。 「……次は、もっと近くまで来て」 男性はそのまま車を急発進させた。 翌朝、車を確認すると、ドアには泥の手形がいくつも残っていたという。 不思議なのは――。 その手形が、 車の外側ではなく、内側から付いていた ことだった。 それ以来、男性は二度と荒沼へ近づかなかった。 そして地元では、こんな話が囁かれている。 夜の荒沼で、自分の名前を呼ばれても―― 決して返事をしてはいけない。 返事をすると、「声の主」が沼から上がってくるからだ。