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比叡山ドライブウェイ――夜の展望台に立つ女

それは、夏の終わりのことだった。 友人と二人で京都から滋賀方面へ向かっていた僕たちは、夜の比叡山ドライブウェイを車で走っていた。 昼間とは違い、山道は驚くほど静かだった。 街の明かりは次第に遠ざかり、ヘッドライトに照らされた道路だけが、暗闇の中に浮かんでいる。 「せっかくだし、展望台に寄っていこうぜ」 友人の言葉に、僕も頷いた。 しばらく走ると、展望台へ続く場所に車を止めた。 外へ出ると、山の空気はひんやりとしていた。 遠くには京都や大津の街明かりが見えている。 僕たちはしばらく景色を眺めていた。 そのときだった。 友人が突然、黙り込んだ。 「……あそこ、人いるよな?」 友人が指差したのは、少し離れた暗い場所だった。 目を凝らすと、確かに誰かが立っている。 長い髪の女性だった。 街灯もない場所で、こちらに背を向けたまま、じっと立っている。 「こんな時間に?」 僕がそう言うと、友人は苦笑した。 「まあ、夜景見に来た人だろ」 そう言って、僕たちは車へ戻ることにした。 ところが――。 車に乗り込んだ瞬間、友人が小さな声で言った。 「……さっきの女、こっち向いてた?」 「いや、ずっと後ろ向いてただろ」 そう答えた。 しかし友人は、何も言わなかった。 そのまま車を走らせ始めた。 山道を下り始めて数分。 突然、後部座席から、 「コン……」 という音が聞こえた。 二人とも振り返った。 何もない。 「枝でも落ちたんじゃない?」 そう言って、再び前を向いた。 すると今度は、 「コン……コン……」 窓を叩くような音がした。 しかも、音は車の外ではなく―― 後部座席の窓のすぐ近くから聞こえていた。 友人はアクセルを踏み込んだ。 その瞬間、カーナビの画面が突然消えた。 そして、真っ暗になった画面に、一瞬だけ何かが映った。 後部座席に座っている―― 女の顔だった。 「うわっ!」 友人が叫び、車を路肩に止めた。 僕は慌てて後ろを振り返った。 誰もいない。 後部座席は空っぽだった。 二人とも何も言えず、しばらく車内で固まっていた。 やがて友人が、 「……もう行こう」 と呟いた。 そのまま山を下り、街へ戻った。 翌朝。 車を確認してみると、後部座席の窓に奇妙な跡が残っていた。 内側から指でなぞったような―― 細長い五本の指の跡。 しかし、それだけではなかった。 その指跡のすぐ下には、もう一つ文字の...

比叡山――夜の山道で聞こえた声

大学生の頃、友人と二人で比叡山へ向かったことがある。 昼間は観光客も多く、歴史のある寺院や杉木立を眺めながら歩く、静かな山だった。 しかし、その日は帰る時間が遅くなった。 「もう暗くなるぞ。そろそろ戻ろう」 友人に言われ、山道を下り始めた。 周囲には街灯もほとんどなく、聞こえるのは風で木々が揺れる音だけ。 しばらく歩いていると、前方の木々の間から、小さな声が聞こえた。 「……すみません」 二人とも足を止めた。 声は、山道の少し先から聞こえたようだった。 「誰かいるのかな?」 友人が声をかける。 すると、今度ははっきりと、 「……こっちです」 と返事があった。 声の方向へ目を向ける。 しかし、そこには誰もいない。 ただ、暗い杉林が続いているだけだった。 「気のせいだろ」 そう言って歩き出した瞬間、背後から再び声がした。 「……待って」 今度は、すぐ後ろだった。 振り返った。 誰もいない。 だが、二人とも同じものを見つけた。 山道の端に、濡れた足跡がいくつも残っていた。 まるで誰かが、雨の中を歩いてきたような足跡。 しかも、その足跡は二人のすぐ後ろまで続いていた。 そして――そこで途切れていた。 「帰ろう」 友人の声が震えていた。 二人は走るように山道を下った。 しばらくして、ようやく明かりのある場所まで出た。 そこで友人が突然立ち止まった。 「……聞こえる?」 耳を澄ます。 遠く離れた山の中から、 「……すみません」 という声が、また聞こえた。 その声は、さっきよりずっと小さかった。 それ以来、友人は夜の山へ行かなくなった。 そして後になって、別の知人から聞いた。 比叡山では、夜の山道で誰もいない場所から声を聞いたという話が、昔からあるという。 もちろん、それが本当に何だったのかは分からない。 ただ一つだけ確かなのは―― あの夜、二人が山道で見つけた濡れた足跡は、翌朝には跡形もなく消えていたということだった。

旧逢坂山隧道――トンネルの向こうから聞こえる声

深夜、友人と二人で旧逢坂山隧道を訪れた。 昼間なら歴史を感じさせる古いトンネルも、夜になると雰囲気が一変する。 周囲にはほとんど人の気配がなく、車の音も聞こえない。 懐中電灯を手に、入口からゆっくりと中へ入っていく。 「思ったより長いな」 友人がそう言った直後だった。 トンネルの奥から、 「……おーい」 小さな声が聞こえた。 二人は立ち止まった。 誰かが先に入っているのかと思い、ライトを奥へ向ける。 しかし、そこには誰もいない。 「聞こえたよな?」 そう確認すると、友人は黙ってうなずいた。 念のため、声のした方向へ進んでみる。 すると、今度はさっきよりはっきりと、 「……こっち」 と聞こえた。 声は確かに人の声だった。 だが、不思議なことに、どこから聞こえているのか分からない。 トンネルの壁に反響しているようにも聞こえる。 二人は少しずつ歩みを進めた。 その瞬間、友人が急に立ち止まった。 「……今、後ろに誰かいた」 振り返る。 当然、誰もいない。 しかし、懐中電灯の光が照らした壁には、二人分ではない影が映っていた。 三つ目の影が、壁に細長く伸びている。 二人とも声が出なかった。 そして、その影だけがゆっくりと動いた。 まるで、こちらへ近づいてくるように。 「戻ろう」 友人が小さく言った。 二人は走って入口へ向かった。 ところが、いくら走っても出口が近づいてこない。 さっきまで見えていた入口の明かりが、どんどん遠ざかっていく。 そして背後から、 「……待って」 という声が聞こえた。 今度は、すぐ耳元だった。 二人は振り返らなかった。 ただ必死に走った。 ようやく外へ飛び出したとき、友人が荒い息をしながら言った。 「最後に聞こえた声……お前の声だったぞ」 自分は何も言っていない。 その場では、そう答えることしかできなかった。 しかし後日、撮影していた動画を確認すると、不思議なことに気づいた。 トンネルの中で、二人が走り出した直後。 録音された音声の中に、はっきりと自分の声が入っていた。 「……こっち」 その声は、二人がまだトンネルの奥へ向かっていたときに聞いた声と、まったく同じだった。 それ以来、二人は旧逢坂山隧道へ近づいていない。 そして今でも疑問に思う。 あの夜、トンネルの奥から聞こえてきた「こっち」という声は、一体誰が発したものだったのか。 そして、なぜその声が―...

逢坂山トンネル――出口に立つ女

深夜、京都から滋賀へ向かって車を走らせていた。 時刻は午前一時を少し過ぎたころ。 昼間なら車の往来も多い道だったが、その時間になると周囲は静まり返っていた。 逢坂山を越えるため、トンネルへと続く道に入った。 前にも何度か通ったことのある道だった。 ところが、その夜だけは妙な違和感があった。 バックミラーを見ると、後ろに一台の車がいる。 白い車だった。 ヘッドライトをつけたまま、一定の距離を保ってついてくる。 「こんな時間に珍しいな」 そう思いながら、トンネルへ入った。 トンネルの中は、外よりもずっと静かだった。 エンジン音だけが壁に反響する。 しばらく走っていると、突然、後ろの車が見えなくなった。 「曲がったのかな」 そう考えた瞬間だった。 トンネルの出口付近に、人影が見えた。 女性だった。 白い服を着て、道路の端に立っている。 こんな深夜に、なぜこんな場所にいるのか。 不審に思いながら車を減速させた。 女性は動かなかった。 ただ、こちらを見ているようだった。 そして車が女性の横を通り過ぎた瞬間―― 後部座席から、 「……乗せて」 という声が聞こえた。 運転していた男は、思わずブレーキを踏みそうになった。 しかし、後部座席には誰も乗せていない。 怖くなり、振り返ることもできなかった。 そのまま車を走らせ、トンネルを抜けた。 そして信号待ちで、恐る恐るルームミラーを確認した。 そこには誰もいない。 「気のせいだったのか……」 そう思った。 だが、その直後。 後部座席の窓が、 コン……。 と小さく鳴った。 男は凍りついた。 もう一度、 コン……。 今度ははっきり聞こえた。 誰かが車の外側から、窓を叩いている。 しかし周囲には人影などない。 怖くなった男は、そのまま家まで車を走らせた。 翌朝。 車を確認すると、後部座席の窓に奇妙な跡が残っていた。 まるで濡れた手のひらを押しつけたような跡だった。 そして、その手形は―― 車の外側ではなく、 内側についていた。 それ以来、男は深夜に逢坂山トンネルを通ることを避けているという。 そして今でも、あの場所では、 誰もいないはずの後部座席から、 「乗せて……」 という声を聞いたという話がある。

狩籠の丘――見下ろす人

夜の狩籠の丘は、昼間とはまるで違う場所に見える。 街の明かりから少し離れた丘の上は、風が強く、木々のざわめきだけが妙に大きく聞こえる。 ある夜、友人と二人でそこを訪れた。 時間は午前一時を過ぎていた。 車を停め、丘の上へ続く道を歩いていると、友人が突然立ち止まった。 「……今、誰かいた?」 そう言って、少し先の斜面を指差した。 暗闇の中には、木が何本か立っているだけだった。 「気のせいじゃない?」 そう答えて歩き出した。 ところが、数分後。 今度は自分が何かを見た。 丘の下を見下ろすようにして、白っぽい人影が立っていた。 距離はそれほど遠くない。 しかし、顔だけが妙に見えなかった。 「おい……あれ、人じゃないか?」 友人に言うと、友人は黙ったまま首を横に振った。 「違う」 「何が?」 友人は小さな声で答えた。 「さっきから、あそこにいる」 その言葉を聞いて、背筋が冷たくなった。 つまり、友人はもっと前から、あの人影に気づいていたのだ。 その瞬間、人影がゆっくりと動いた。 こちらへ歩いてくるのかと思った。 だが、違った。 人影は丘の端に立ったまま、ゆっくりとこちらへ顔を向けた。 顔は見えない。 それでも―― 「見られている」 そう感じた。 怖くなり、二人で急いで車へ戻った。 エンジンをかけ、丘を下ろうとしたときだった。 友人が突然、後部座席を振り返った。 「……乗ってる」 その一言で、車内の空気が凍りついた。 「何が?」 聞き返しても、友人は答えない。 ただ、震えながらバックミラーを見つめていた。 自分も恐る恐る鏡を見た。 後部座席には、誰もいない。 ほっとした、その直後。 車の屋根から、 コン…… と、小さな音がした。 続いて、 コン…… もう一度。 まるで、誰かが車の屋根を指で叩いているようだった。 二人とも声が出なかった。 そして三度目の音がした。 コン…… その瞬間、友人が震える声で言った。 「……上じゃない」 「え?」 友人はフロントガラスの先を指差した。 丘の上。 先ほど人影が立っていた場所に、まだ誰かが立っている。 そしてその人影は、こちらを見下ろしていた。 車を急発進させ、丘を離れた。 それ以来、二人とも狩籠の丘へ行くことはなくなった。 ただ、後になって友人から一つだけ奇妙な話を聞いた。 あの夜、車の中で聞こえた「コン」という音。 録音されていたという...

木の岡ビオトープ――夜の湿地に立つ女

その場所には、かつて巨大な建物が建っていた。 琵琶湖のほとりに残された、完成することのなかった建物。 長い間、人の気配がなくなったことで、いつしか「幽霊ビル」と呼ばれるようになったという。 やがて建物は撤去され、その周辺には草木が生い茂り、現在では木の岡ビオトープとして自然が残されている。 これは、そんな場所で起きたという、ある奇妙な話だ。 数年前の夏。 大学生の男が、友人二人と木の岡ビオトープ周辺を訪れていた。 昼間は自然観察なども行われる場所だったが、その日は夜だった。 「昔ここに、幽霊ビルがあったらしいぞ」 友人の一人が、スマートフォンを見ながら言った。 男は笑った。 「今はもうないんだろ? だったら何も怖くないじゃん」 そう言って、三人は湖の近くまで歩いていった。 夜の湿地は静かだった。 風がほとんどなく、草木がじっと立っている。 遠くから聞こえる車の音。 そして、ときどき水面が小さく揺れる音。 三人が歩いていると、突然、一人が足を止めた。 「……今、誰かいた?」 「え?」 三人が振り返った。 当然、誰もいない。 ただ、暗い木々の間に細い道が続いているだけだった。 「気のせいだろ」 そう言って歩き出した、そのとき。 後ろから、 ――ザッ。 草を踏む音がした。 三人とも振り返った。 誰もいない。 また歩く。 ――ザッ。 今度は、さっきより近い。 「誰かいる?」 友人が声をかけた。 返事はない。 しかし、その直後だった。 湖の方向から、 「……すみません」 女の声が聞こえた。 三人は凍りついた。 声のした方向を見る。 そこには、白い服を着た女が立っていた。 顔は暗くて見えない。 ただ、じっと三人のほうを見ている。 「……誰?」 男が声をかけた。 女は答えなかった。 その代わり、ゆっくりと湖のほうを指差した。 三人がそちらを見る。 何もない。 もう一度女を見る。 ――いない。 「逃げよう!」 三人は走り出した。 車まで戻り、急いで乗り込む。 エンジンをかけようとした、その瞬間。 後部座席から、 「……まだ帰らないで」 女の声がした。 三人は悲鳴を上げた。 誰も後部座席には乗っていない。 それなのに、車内には確かに女の声が響いていた。 そして、フロントガラスの向こう。 暗い草むらの中に、さっきの女が立っていた。 今度は顔が見えた。 しかし―― 目がなかった。 ただ真...

旧木の岡レイクサイドビル――消えたはずの11階

滋賀県大津市。 琵琶湖の湖岸近くに、かつて一棟の巨大な建物が立っていた。 木の岡レイクサイドビル。 観光ホテルとして建設が始まったものの、資金難によって工事は途中で止まり、そのまま長い年月を廃墟として過ごした建物だった。 いつしか人々は、その建物をこう呼ぶようになった。 「幽霊ビル」 そして、ある男がその場所を訪れたのは、解体される数年前のことだった。 男は廃墟の写真を撮るのが趣味だった。 ある夜、友人と二人で車を走らせ、木の岡レイクサイドビルの前までやってきた。 車のライトに照らされた建物は、窓ガラスのほとんどがなく、黒い穴のような窓がいくつも並んでいた。 「ここ、本当にホテルになる予定だったのか?」 友人がそう呟いた。 男はカメラを構え、シャッターを切った。 その瞬間だった。 建物の上の方に、人影が見えた。 「……誰かいる」 二人は顔を見合わせた。 だが、その建物は長い間使われていない。 人がいるはずがなかった。 それでも男はズームレンズを伸ばした。 すると―― 最上階の窓に、白い服を着た女性が立っていた。 こちらを見ている。 男は慌ててシャッターを切った。 しかし、次の瞬間。 女性の姿は消えていた。 「今、見たよな?」 友人は答えなかった。 ただ、建物を見つめたまま、青ざめていた。 「……あのビル、11階までしかないよな?」 男は頷いた。 すると友人が震える声で言った。 「今の女……12階にいた」 二人は言葉を失った。 翌日、男は撮影した写真を確認した。 そこには確かに、最上階の窓に女性の姿が写っていた。 しかし、奇妙なことに気づいた。 女性の立っていた場所の下には、本来なら存在しないはずの階が写り込んでいた。 一階。 二階。 三階。 そして―― 十一階。 その上に、もう一つ階があった。 「……十二階?」 男は写真を何度も見返した。 その日の夜、男は一人で眠った。 午前二時を過ぎた頃だった。 突然、携帯電話が鳴った。 画面には、登録していない番号が表示されていた。 恐る恐る電話に出る。 すると、向こうから女の声が聞こえた。 「……まだ、上にいるよ」 男は息を呑んだ。 「誰ですか?」 返事はない。 ただ、遠くから聞こえるような水の音だけが響いていた。 そして最後に、 「早く降りて」 女がそう呟いた。 電話は切れた。 翌朝。 男は昨夜の写真を確認した。 すると、昨...

琵琶湖大橋・螺旋階段

深夜、琵琶湖大橋を車で渡っていた。 午前二時を過ぎていたこともあり、橋の上にはほとんど車が走っていない。 湖面は真っ暗で、遠くの街明かりだけが水面にぼんやり浮かんでいた。 そのとき、橋の途中にある螺旋階段が目に入った。 橋の下へ降りるための階段だった。 「こんなところに階段なんてあったんだ……」 気になった男は、車を脇に停め、階段を降りてみることにした。 入口を抜けると、そこには細い螺旋階段が続いていた。 一段、また一段。 足音がコンクリートの壁に反響する。 ――カン……カン……カン…… かなり下まで降りたところで、男は妙なことに気づいた。 自分の足音とは別に、 ――カン……カン…… もう一つ、足音が聞こえる。 「……誰かいるのか?」 振り返った。 誰もいない。 それでも足音は止まらない。 むしろ、少しずつ近づいてくる。 ――カン…… ――カン…… ――カン…… 男は怖くなり、階段を上り始めた。 すると今度は、下から声がした。 「……待って」 男の足が止まった。 低く、かすれた女の声だった。 「待って……」 振り返ってはいけない。 そんな直感があった。 男は無視して、必死に階段を上った。 ところが、どれだけ上っても出口が見えてこない。 さっきまで見えていた橋の明かりも消えている。 そして背後から、 ――カン……カン……カン…… 足音がどんどん近づいてくる。 男は走った。 すると耳元で、 「……上に行かないで」 女の声がした。 男は恐怖で振り返った。 そこには、長い髪を顔の前に垂らした女が立っていた。 しかし、その女の身体は―― 階段に立っていなかった。 宙に浮いていた。 男は声にならない悲鳴を上げ、その場から逃げ出した。 気がつくと、彼は橋の上に倒れていた。 警察に保護されたとき、男は何度も同じことを繰り返していた。 「階段が……終わらなかった」 「ずっと下に続いてた……」 そして最後に、震えながらこう言ったという。 「俺の後ろにいた女……」 「ずっと、階段を上ってきてたんです」 「でも……」 「足音は、一度も二つじゃなかった」 その意味が分からず、警察官が尋ねた。 「どういうことですか?」 男は青ざめた顔で答えた。 「足音は……三つでした」 「俺の足音と……女の足音」 「それから……」 「もう一人分の足音が、ずっと俺の前を歩いていたんです」 それ以来、深夜の琵琶湖...

琵琶湖大橋――湖面から呼ぶ声

深夜、琵琶湖大橋を車で渡っていた。 時刻は午前二時を少し過ぎた頃。 昼間なら多くの車が行き交う橋も、その時間になるとほとんど車の姿はない。 橋の上から見える琵琶湖は、街の明かりをわずかに映しているだけだった。 「……真っ暗だな」 そう呟きながら、ゆっくりと車を走らせていた。 すると、橋の中央付近に差しかかったところで、バックミラーに違和感を覚えた。 後ろに、一台の白い車がいる。 いつからいたのか分からない。 ライトを点けているのに、車体だけが妙に暗く見えた。 気味が悪くなり、少し速度を上げた。 しかし、白い車も一定の距離を保ったままついてくる。 やがて橋を下り始めたところで、突然その車が消えた。 「……?」 ミラーを何度見ても、後ろには何もいない。 気のせいだったのだろう。 そう思って、そのまま走り続けた。 ところが数分後。 車内に、かすかな声が聞こえた。 「……止まって……」 思わずブレーキを踏みそうになった。 しかし、声は車内のどこから聞こえたのか分からない。 ラジオは消している。 助手席にも誰もいない。 「……止まって……」 今度は、はっきり聞こえた。 そして、その直後。 カーナビの画面が突然消えた。 真っ黒になった画面に、ぼんやりと何かが映っている。 最初は自分の顔だと思った。 だが違った。 自分の後部座席に―― 濡れた髪の女が座っていた。 「うわっ!」 車を路肩に寄せ、慌てて振り返る。 しかし、そこには誰もいない。 シートも乾いている。 震える手で再び前を向いた。 するとフロントガラスの向こうに、琵琶湖大橋が見えた。 おかしい。 さっき、橋はもう渡り終えたはずだった。 それなのに、自分はまた橋の上を走っている。 しかも今度は、橋の中央に一人の女が立っていた。 白い服。 長い髪。 そして、裸足だった。 車を止めようとした瞬間、女がゆっくり顔を上げた。 その顔を見た瞬間、背筋が凍った。 女の顔には―― 目も鼻も口もなかった。 ただ真っ白な顔で、こちらを見ている。 そして女が一歩、車へ近づいてくる。 その瞬間、耳元で声がした。 「……次は、あなたが湖の下」 恐怖でアクセルを踏み込んだ。 車は橋を一気に走り抜けた。 気がつくと、橋は完全に消えていた。 翌朝。 車を確認すると、後部座席だけがびしょ濡れになっていた。 そしてシートの上には、一本の長い髪の毛。 さらに、...

ホテル祇園――午前二時の内線

路地裏に、古びたホテルがあった。 名前は「ホテル祇園」。 昼間は観光客の姿もある普通のホテルだが、夜になると雰囲気が一変する。 特に、深夜二時を過ぎると、従業員の間で妙な噂があった。 「午前二時に、使われていない部屋から内線がかかってくる」 ある夜、新人のフロント係が一人で夜勤をしていた。 午前二時十三分。 フロントの電話が鳴った。 表示された番号は――「307」。 しかし、ホテルの三階には307号室など存在しなかった。 新人は首をかしげながら電話を取った。 「はい、フロントです」 返事はない。 ただ、受話器の向こうから、 ……ザァ…… という、雨のような音が聞こえていた。 そして数秒後。 女の声がした。 「……まだ、部屋にいます」 新人は思わず聞き返した。 「お客様、何号室でしょうか?」 すると女は、小さな声で答えた。 「307号室です」 その瞬間、電話が切れた。 気味が悪くなった新人は、先輩に確認した。 すると先輩の顔から血の気が引いた。 「……その電話、今かかってきた?」 「はい。307号室からです」 先輩はしばらく黙ったあと、こう言った。 「絶対に三階へ行くな」 理由を聞いても、先輩は教えてくれなかった。 ところが、その直後。 今度はエレベーターが勝手に動き始めた。 一階から三階へ。 誰も乗っていないはずなのに。 チン――。 扉が開く。 監視カメラを見ると、三階の廊下には誰もいない。 しかし、画面の奥。 存在しないはずの307号室の前に、 白い服を着た女が立っていた。 女はじっとカメラを見つめていた。 そして突然―― 画面の中で、ゆっくり笑った。 新人が息をのんだ、その瞬間。 フロントの電話が再び鳴った。 表示は、 「307」。 震える手で受話器を取る。 すると今度は、さっきの女の声がはっきり聞こえた。 「……今から、そちらへ行きます」 新人が顔を上げる。 エレベーターの表示は、 「3階」。 そして、ゆっくりと数字が変わり始めた。 「2……」 「1……」 「0……」 一階に戻ってきた。 扉が開く。 そこには誰もいない。 ただ、廊下の奥から、 ポタ…… ポタ…… と、水が落ちるような音が聞こえてきた。 新人が恐る恐る視線を向ける。 そこには、濡れた足跡があった。 三階から続いてきたように、 廊下を一直線に進み、 フロントの目の前で止まっている。 そして最後の足...