比叡山――夜の山道で聞こえた声

大学生の頃、友人と二人で比叡山へ向かったことがある。

昼間は観光客も多く、歴史のある寺院や杉木立を眺めながら歩く、静かな山だった。

しかし、その日は帰る時間が遅くなった。

「もう暗くなるぞ。そろそろ戻ろう」

友人に言われ、山道を下り始めた。

周囲には街灯もほとんどなく、聞こえるのは風で木々が揺れる音だけ。

しばらく歩いていると、前方の木々の間から、小さな声が聞こえた。

「……すみません」

二人とも足を止めた。

声は、山道の少し先から聞こえたようだった。

「誰かいるのかな?」

友人が声をかける。

すると、今度ははっきりと、

「……こっちです」

と返事があった。

声の方向へ目を向ける。

しかし、そこには誰もいない。

ただ、暗い杉林が続いているだけだった。

「気のせいだろ」

そう言って歩き出した瞬間、背後から再び声がした。

「……待って」

今度は、すぐ後ろだった。

振り返った。

誰もいない。

だが、二人とも同じものを見つけた。

山道の端に、濡れた足跡がいくつも残っていた。

まるで誰かが、雨の中を歩いてきたような足跡。

しかも、その足跡は二人のすぐ後ろまで続いていた。

そして――そこで途切れていた。

「帰ろう」

友人の声が震えていた。

二人は走るように山道を下った。

しばらくして、ようやく明かりのある場所まで出た。

そこで友人が突然立ち止まった。

「……聞こえる?」

耳を澄ます。

遠く離れた山の中から、

「……すみません」

という声が、また聞こえた。

その声は、さっきよりずっと小さかった。

それ以来、友人は夜の山へ行かなくなった。

そして後になって、別の知人から聞いた。

比叡山では、夜の山道で誰もいない場所から声を聞いたという話が、昔からあるという。

もちろん、それが本当に何だったのかは分からない。

ただ一つだけ確かなのは――

あの夜、二人が山道で見つけた濡れた足跡は、翌朝には跡形もなく消えていたということだった。

コメント