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飯盛山――振り返ってはいけない石段

会津若松の飯盛山には、昼間には多くの観光客が訪れる。 白虎隊ゆかりの地として知られ、長い石段を上った先には、静かな山の空気が広がっている。 しかし、地元では昔から、日が落ちてから飯盛山を歩くのは避けたほうがいいと言われていた。 ある秋の夜、若い男性が一人で飯盛山を訪れた。 観光客の姿がなくなった時間を狙い、石段をゆっくりと上っていく。 周囲には木々のざわめきしかない。 ところが、石段の途中まで来たときだった。 ――カツン。 後ろから、石を踏む音が聞こえた。 男性は足を止めた。 振り返る。 誰もいない。 気のせいだと思い、再び歩き始める。 すると、 ――カツン……カツン…… 今度は、はっきりと二つの足音がついてくる。 男性が歩けば、後ろも歩く。 止まれば、後ろも止まる。 怖くなった男性は、振り返らずにそのまま石段を上った。 すると突然、耳元で小さな声がした。 「……まだ、帰らないの?」 男性は凍りついた。 声は、すぐ後ろから聞こえた。 それでも振り返らなかった。 やがて石段を上りきり、少し開けた場所へ出た。 足音は消えている。 安心した男性が、ようやく後ろを確認すると―― 石段には、誰もいなかった。 ただ、一つだけおかしなものがあった。 自分の足跡の隣に、もう一列。 濡れた裸足の足跡が、石段の下からずっと続いていた。 そして、その足跡は男性のすぐ後ろで途切れていた。 男性は急いで山を下りた。 その後、二度と夜の飯盛山には近づかなかったという。 ただ、不思議なことに―― それから何年も経った今でも、夜になると飯盛山の石段で、 「……まだ、帰らないの?」 という声を聞いたという話が残っている。 その声を聞いても、決して振り返ってはいけない。 もし振り返れば―― そこには、石段を上ってくる誰かがいる。 そして、その「誰か」は、あなたより先に山を下りることはない。

会津さざえ堂――螺旋の途中で

夕暮れの飯盛山は、昼間とはまるで違う顔を見せる。 観光客の姿が少なくなり、木々の間から差し込んでいた光も、少しずつ薄暗くなっていた。 その日、私は一人で会津さざえ堂を訪れていた。 六角三層の不思議な建物。 中へ入ると、螺旋状の通路が上へと続いている。 上りと下りが別々になっているため、同じ場所を通っているはずなのに、人とすれ違うことがない。 それが、さざえ堂の特徴だった。 私はゆっくりと階段のない坂道を上っていった。 すると途中で―― 「……カタ……カタ……」 下の方から、誰かが歩いてくる音が聞こえた。 木の床を踏む、乾いた足音。 私は立ち止まった。 誰かが下から上ってきている。 そう思った。 ところが、しばらく待っても人の姿は見えない。 足音だけが、少しずつ近づいてくる。 「カタ……カタ……カタ……」 私は怖くなり、先へ進んだ。 やがて最上部に近づいたところで、ふと背後を見る。 誰もいない。 しかし―― 今度は、自分のすぐ後ろから声がした。 「……まだ、帰れない」 驚いて振り返った。 もちろん、誰もいない。 ただ、暗い螺旋の通路が続いているだけだった。 私は急いで出口へ向かった。 ところが、何度歩いても同じ景色が続く。 「おかしい……」 さざえ堂は一方通行の構造になっている。 来た道を戻っているわけではない。 それなのに、目の前には先ほど見た柱があった。 そして、その柱の横には―― 小さな泥の足跡が残っていた。 一つ。 二つ。 三つ。 その足跡は、私の足元から始まり、螺旋の奥へ向かって続いていた。 その瞬間、遠くから大勢の少年たちが走るような音が聞こえた。 「急げ!」 「早く!」 「城へ……!」 何人もの声だった。 私は息を呑んだ。 飯盛山は、戊辰戦争の際に白虎隊が戸ノ口堰洞門を通って逃れ、最期を迎えた場所でもある。 そして、その声の中に混じって―― 「……置いていかないでくれ」 という、小さな声が聞こえた。 次の瞬間。 さざえ堂の中が、突然しんと静まり返った。 足音も消えた。 声も消えた。 私は夢中で出口へ走った。 外へ出ると、もう辺りは暗くなっていた。 振り返ると、さざえ堂は何事もなかったかのように静かに佇んでいる。 そのときだった。 入口の近くに...

滝沢峠――後ろから聞こえる足音

夜の滝沢峠は、昼間とはまるで別の場所だった。 車のライトが照らすのは、細い道と、その両脇に広がる黒い木々だけ。 ある晩、一人の男が峠道を車で走っていた。 時刻は午前一時を過ぎていた。 しばらく進むと、突然、車の後ろから―― 「コン、コン……」 小さな音が聞こえた。 最初は石でも跳ねたのだろうと思った。 だが、音は一度では終わらなかった。 「コン、コン……」 まるで誰かが、車の後部を指で叩いているようだった。 男は怖くなりながらも、バックミラーを見た。 しかし、そこには誰もいない。 道の後ろには、ただ暗闇が続いているだけだった。 気味が悪くなった男は、アクセルを踏み込んだ。 すると今度は、 「タッ……タッ……タッ……」 車の後ろから、走るような足音が聞こえてきた。 しかも、その音は車が速度を上げるほど速くなっていく。 男はバックミラーを見ないようにした。 だが、どうしても気になり、もう一度だけ鏡を確認した。 その瞬間―― 後部座席に、誰かが座っていた。 長い髪を垂らし、うつむいた人影。 男は声も出せなかった。 次の瞬間、車内の空気が急に冷たくなった。 そして耳元で、 「……乗せて」 と、小さな声がした。 男は夢中で車を走らせ、峠を下った。 明るい場所まで来てから、恐る恐る後部座席を振り返る。 そこには誰もいなかった。 ただ、座席には泥で濡れた二本の足跡だけが残っていた。 そして翌朝。 車を確認すると、後部座席の窓の内側に、指で書かれたような文字が残っていた。 ――「次は降ろして」 それ以来、男は夜の峠道を二度と通らなくなった。 しかし、滝沢峠を深夜に走った人の中には、今でも聞くという。 誰もいないはずの後部座席から聞こえてくる、 「コン、コン……」 という、窓を叩く音を。

上蓬莱橋――橋の向こうから

夜の上蓬莱橋は、昼間とはまるで違う顔をしていた。 川の流れる音だけが響き、街灯の明かりもところどころ途切れている。 その日、私は友人と二人で、橋の上を歩いていた。 「……なんか、ここ嫌な感じするな」 友人がそう言った。 私も同じことを感じていた。 橋の中央まで来たとき、ふと前方を見ると、向こう岸に人影が立っている。 白っぽい服を着た女だった。 街灯もない暗闇の中で、なぜかその姿だけが妙にはっきり見えた。 「誰かいるぞ」 友人が声をかけた。 しかし、女は動かない。 こちらを見ているようにも見えた。 その瞬間だった。 ――コン。 橋の下から、何かを叩くような音がした。 二人とも足を止めた。 ――コン……コン……。 今度ははっきり聞こえた。 まるで、橋の下から誰かが助けを求めているような音だった。 怖くなった私たちは、急いで橋を渡り始めた。 ところが、向こう岸にいたはずの女がいない。 「……消えた?」 周囲を見回しても、誰もいない。 そのまま帰ろうとしたとき、友人が突然立ち止まった。 「待って」 「どうした?」 友人は震えながら、橋の中央を指差した。 そこに、女が立っていた。 さっきまで向こう岸にいた女だった。 しかも今度は、私たちのすぐ後ろ。 顔は俯いていて、長い髪が表情を隠している。 私たちは振り返らず、その場から走って逃げた。 しばらくして安全な場所まで来ると、友人がスマートフォンを確認した。 「……これ、いつ撮ったんだ?」 画面には、橋の上を歩く私たちの後ろ姿が写っていた。 そして、そのさらに後ろ。 橋の欄干の向こう側から、女がこちらを見ていた。 友人が震える声で言った。 「でも……俺、こんな写真撮ってないぞ」 その写真を最後に、スマートフォンは突然電源が落ちた。 それから数日後。 私は一人で写真を整理していた。 何気なくあの写真をもう一度開いてみる。 すると、前には気づかなかったものが写っていた。 橋の下。 暗い川面の中に、もう一人、人影が立っていた。 そしてその人物は―― 橋の上にいる私たちではなく、こちらを向いていた。 まるで写真を見ている私を、ずっと待っていたかのように。

うすい女子寮――空室のはずの部屋

その女子寮には、昔から一つだけ妙な噂があった。 「夜中に、誰もいない部屋から物音がする」 寮に住む女子たちは、最初こそ笑っていた。 古い建物だから、床がきしんだり、配管が鳴ったりするだけ。 そう思っていた。 ところが、ある夜。 午前二時を過ぎた頃、廊下の奥から、 ――コン、コン、コン。 と、一定の間隔で壁を叩く音が聞こえてきた。 音がするのは、ずっと空室になっている一室だった。 気になった一人が、恐る恐る部屋の前まで行った。 すると、音はぴたりと止んだ。 「……誰かいるの?」 返事はない。 そのまま部屋へ戻ろうとした瞬間、 ――コン。 今度は、すぐ後ろから音がした。 振り返っても、誰もいない。 怖くなって部屋へ戻った彼女は、その夜は何も考えずに眠ろうとした。 しかし翌朝。 同じ寮生から、奇妙なことを聞かされた。 「昨日の夜、あなたの部屋の前を通ったんだけど……ずっと誰かと話してなかった?」 そんな覚えはない。 すると彼女は、昨夜のことを思い出した。 空室の前で、 「誰かいるの?」 そう声をかけたこと。 そして、その直後に聞こえた音。 ――コン。 実はその音は、部屋の中からではなかった。 壁の向こう側から聞こえていたのだ。 それから数日後。 寮の改修工事が始まり、問題の部屋の壁が取り壊された。 すると、壁の内側から古い鏡が一枚出てきた。 なぜ、そんな場所に鏡が埋め込まれていたのか。 誰にも分からなかった。 ただ、その鏡には奇妙な傷が残っていた。 表面には、内側から爪で引っかいたような跡が無数についていた。 そして工事が終わった日の夜。 誰もいないはずの空室から、 ――コン、コン、コン。 また、壁を叩く音が聞こえた。 寮生が廊下を確認すると、問題の部屋の扉には鍵が掛かっていた。 それなのに。 扉の向こうから、女の声がした。 「……開けて」 その声を聞いた寮生は、怖くなってその場から逃げた。 翌朝、管理人が部屋を開けて確認した。 中には誰もいなかった。 ただ、昨日まで何もなかった壁に、 小さな手形が一つだけ残っていた。 しかもその手形は、壁の外側ではなく―― 壁の内側から押しつけられたように残っていたという。

雪割橋――橋の下から呼ぶ声

秋の終わり、男は一人で雪割橋を訪れた。 昼間は観光客の姿もあったが、夕方になると周囲は急に静かになった。 橋の上から谷を見下ろすと、木々の隙間を縫うように川が流れている。 男が手すりに寄りかかり、何気なく下を眺めていると―― 「……すみません」 突然、声が聞こえた。 振り返った。 しかし、橋の上には誰もいない。 気のせいだと思い、もう一度谷底を見る。 すると今度は、はっきり聞こえた。 「……すみません。こっちです」 声は、橋の 真下 からだった。 男は恐る恐る身を乗り出した。 だが、木々が生い茂っていて、川面すらよく見えない。 「誰かいるんですか?」 そう叫んだ瞬間だった。 「……やっと見つけてくれた」 今度は、すぐ耳元で声がした。 男は慌てて振り返った。 そこには―― 濡れた髪を顔に張りつかせた女が立っていた。 男は声も出せず、後ずさった。 女はじっと男を見つめている。 そして、小さな声でこう言った。 「下にいるんです」 男は恐怖で動けなくなった。 女は橋の手すりを指差した。 「ずっと……下から呼んでるんです」 その瞬間、橋の下から大量の水が流れるような音が響いた。 男が反射的に谷を見下ろす。 そこには誰もいない。 慌てて振り返ると、女の姿も消えていた。 ただ、橋の上には水滴だけが残されていた。 男は逃げるように車へ戻った。 そして翌朝、撮影した写真を確認していると、一枚だけ見覚えのない写真があった。 それは、橋の下を撮影した写真だった。 暗い木々の間に、白い顔が写っている。 そして写真を拡大すると―― その顔の口が、ほんの少し開いていた。 まるで、 「こっちです」 と、もう一度呼びかけているように。 それ以来、男は橋の下を二度と見ないようにしているという。 雪割橋では、夕暮れ時に橋の下から声を聞いても、決して返事をしてはいけない。 返事をすると―― 今度は、橋の上ではなく、 あなたのすぐ後ろから声が聞こえる。

あぶくま高原ホテル――聞こえてはいけない音

山の中に、そのホテルは今も残っている。 かつては温泉や健康ランド、キャンプ場まで備えた、家族連れで賑わうレジャー施設だったという。 しかし営業を終えてから長い年月が過ぎ、今では窓ガラスの割れた建物と、隣に残る教会だけが、当時の面影を伝えている。 これは、ある男性が友人と二人で、夜のホテルを見に行ったときの話だ。 もちろん、建物の中へ入るつもりはなかった。 ただ、山道から見える廃ホテルを撮影して帰る。 それだけの予定だった。 ホテルの前に車を停めると、あたりは異様なほど静かだった。 風もない。 虫の声すら聞こえない。 そのときだった。 「……ピー……」 小さな電子音のような音が聞こえた。 最初は車の警告音だと思った。 だが、車のエンジンを切っても音は消えない。 「聞こえる?」 友人に聞くと、友人も黙って頷いた。 音はホテルの中から聞こえていた。 二人は建物には入らず、外からしばらく撮影することにした。 すると、廊下の奥に何か白いものが見えた。 人影。 女性のように見えた。 だが、次の瞬間には消えている。 「今、女の人いたよな?」 友人がそう言った。 男性は答えなかった。 なぜなら、その白い影が見えた場所から―― また、あの音が聞こえたからだ。 「……ピー……」 今度は、すぐ近く。 二人は急いで車へ戻った。 そして車を走らせ、ホテルから十分ほど離れたところで、ようやく音が消えた。 その夜、撮影した映像を確認すると、不思議なことが起きていた。 ホテルを撮影している場面。 画面の端に、一瞬だけ女性の姿が映っていた。 だが、それ以上に怖かったのは音だった。 映像には、確かにあの「ピー」という音が録音されていた。 男性は音声を拡大して聞いてみた。 すると、その音の直後。 小さな声が入っていた。 「……まだ、いるよ」 二人とも、その声を聞いた瞬間に再生を止めた。 後日、男性はもう一度だけホテルの近くまで行った。 昼間だった。 そして、遠くから廃ホテルを見上げた。 すると、誰もいないはずの二階の窓に―― 白い服を着た女性が立っていた。 女性はじっとこちらを見ていた。 そして、ゆっくりと手を上げる。 まるで、 「こっちへ来て」 と呼んでいるように。 男性はその場から逃げるように車へ...

高子沼グリーンランド――閉園した遊園地の最後の客

 深夜。 霧の向こうに、古びた遊園地が浮かんでいた。 そこは、かつて多くの家族連れで賑わった高子沼グリーンランド。 ジェットコースター、観覧車、ゴーカート。 昼間には子供たちの笑い声が響いていた場所だった。 しかし、遊園地は閉園し、長い年月をかけて朽ち果てていった。 ある夏の夜。 廃墟を訪れた数人の若者が、敷地の奥へ進んでいた。 「……本当に何もないな」 懐中電灯で照らしても、そこにあるのは錆びた柵と雑草ばかり。 そのときだった。 ――カラン……。 遠くから、金属が揺れる音が聞こえた。 「今の、何?」 全員が立ち止まった。 音のした方向を見る。 そこには、動いているはずのない観覧車があった。 もちろん、電気は通っていない。 それなのに―― ゆっくりと、一つのゴンドラが動いた。 ギ……。 ギィ……。 ほんの少しだけ。 そして、最上部まで上がったところで止まった。 誰かが懐中電灯を向けた。 すると、ゴンドラの中に―― 白い服を着た女性が座っていた。 「……人?」 そう呟いた瞬間。 女性がこちらを向いた。 顔は見えなかった。 ただ、真っ白な顔だけが、暗闇の中に浮かんでいた。 次の瞬間。 観覧車が止まった。 そして、背後から―― 「きゃあああああっ!」 女性の悲鳴が響いた。 全員が振り返った。 誰もいない。 しかし悲鳴は一度では終わらなかった。 「きゃあああああっ!」 今度は、ジェットコースターの方向から聞こえた。 彼らは慌てて走り出した。 錆びたレールの下を抜け、出口へ向かう。 ところが―― 入り口が見つからない。 何度歩いても、同じ場所に戻ってきてしまう。 そして、霧の中から声が聞こえた。 「……まだ、帰らないの?」 子供の声だった。 その瞬間、遊園地中から―― カラン、カラン、カラン…… 古い遊具が一斉に動き始めた。 誰も乗っていないメリーゴーラウンド。 誰もいないコーヒーカップ。 そして、止まっていたはずのジェットコースター。 ギギギギギ…… ゆっくりと車両がレールを進み始めた。 若者たちは必死に走った。 やがて、霧の向こうに出口らしき明かりが見えた。 「出口だ!」 一人が駆け出した。 しかし、その瞬間。 後ろから肩を強く掴まれた。 振り返る。 そこには―― 誰もいなかった。 ただ耳元で、 「次は、あなたが乗る番」 と、女の声が囁いた。 翌朝。 遊園地跡の近...

翁島ペンション――窓から覗く女

福島県の山あい。 木々に囲まれた細い道の先に、かつて一軒のペンションが建っていた。 白い壁。 尖った屋根。 そして、森の中からこちらを見つめるような二階の窓。 その建物は、いつしか「幽霊ペンション」と呼ばれるようになっていた。 有名になった理由は、ある噂だった。 ――地下のワインセラーで、オーナーが亡くなった。 そして、その姿を最初に見つけた妻は精神的におかしくなり、息子にも悲劇が起きた。 一家にまつわるその噂は、いつしか「この建物には家族の霊が残っている」という話へ変わっていった。 特に有名だったのが、二階の窓だった。 夜になると、そこから女性が外を見ている。 誰かが近づくと、窓の向こうからじっとこちらを見つめている。 そんな話だった。 もちろん、ただの噂だ。 そう思っていた。 ある冬の夜、一人の男がそのペンションの前に立った。 雪の積もった森は、音がなかった。 風もない。 鳥の声もない。 ただ、古びた建物だけが暗闇の中に浮かんでいる。 男は懐中電灯を向けた。 一階。 何もない。 二階。 ……何もない。 「やっぱり噂か」 そう呟いた瞬間だった。 カン。 建物の中から、小さな音がした。 誰かが歩いたような音だった。 男はしばらく動けなかった。 だが、音は一度だけ。 気のせいだと思い、建物を離れようとした。 そのとき。 ふと、二階の窓が目に入った。 そこに―― 女が立っていた。 真っ白な顔。 長い髪。 そして、窓ガラスに顔を近づけたまま、こちらを見ている。 男は息を呑んだ。 動けない。 女も動かない。 ただ、じっと見ている。 「……誰だ?」 声を出した瞬間。 女の顔が、ゆっくり窓から消えた。 男は逃げるように車へ戻った。 エンジンをかける。 何度もバックミラーを確認する。 二階の窓には、もう何もいない。 「見間違いだ」 そう自分に言い聞かせながら車を走らせた。 数分後。 男は異変に気づいた。 フロントガラスに、何かが付いている。 白い跡だった。 まるで―― 小さな手のひら。 一つ。 二つ。 三つ。 子どもの手形が、ガラスいっぱいに残っていた。 男は急ブレーキを踏んだ。 そして、恐る恐る後ろを振り返った。 誰もいない。 だが、その瞬間。 車の後部座席から、 「……おかあさん」 という小さな声が聞こえた。 男は振り返らなかった。 振り返ることができなかった。 その声は、も...

横向温泉ロッジ――地下から聞こえた「もう一人」の声

山道を走っていた車のヘッドライトが、古びた建物を照らした。 木々の向こうに、何階もある大きな建物が浮かび上がる。 それが、かつて温泉宿として営業していた横向温泉ロッジだった。 夜の山中に取り残されたその建物は、窓ガラスが割れ、壁には無数の落書きが残されていた。 そして、この場所には昔から奇妙な噂があった。 「浴場に女の子が出る」 「三階の窓から、男の子が手を振っている」 「地下の大広間には、近づかないほうがいい」 特に地下は、何かがおかしいと言われていた。 その夜、三人の若者は、建物の外から中を眺めていた。 「……本当に誰もいないよな?」 そう言った瞬間だった。 建物の三階。 真っ暗な窓の奥で―― 小さな手が動いた。 三人は同時に顔を上げた。 手だった。 白い、小さな手。 そしてその手は、ゆっくりと左右に振られていた。 まるで、 「おいで」 と呼んでいるように。 「今……見た?」 誰も答えなかった。 その場から離れようとした、そのとき。 建物の中から、 コン…… と、小さな音がした。 続いて、 コン……コン…… まるで誰かが扉を叩いている。 三人は顔を見合わせた。 音は地下の方向から聞こえていた。 「……行ってみるか」 地下へ続く階段を下りる。 一段。 また一段。 下へ進むほど、空気が冷たくなっていく。 やがて、地下の大広間にたどり着いた。 そこには何もなかった。 ただ、暗闇だけが広がっている。 一人がふざけ半分に、近くの扉を軽く叩いた。 コン、コン。 すると―― コン、コン。 向こう側から返事があった。 三人の顔から血の気が引いた。 「……誰かいるのか?」 返事はない。 しかし、数秒後。 今度は、 ドンドンドンドン! 激しく扉を叩く音が響いた。 「逃げろ!」 三人が階段へ向かって走り出した。 その瞬間。 地下の奥から、子供の声が聞こえた。 「……まって」 足が止まりそうになる。 だが、振り返らなかった。 必死に階段を駆け上がる。 一階。 二階。 そして三階。 そこで、一人が何気なく窓の外を見た。 さっき手を振っていた窓。 そこには―― 誰もいなかった。 「……いない」 そう呟いた直後。 背後から、小さな声がした。 「ここだよ」 三人はゆっくり振り返った。 廊下の端。 薄暗い場所に、小さな女の子が立っていた。 顔は見えない。 ただ、こちらをじっと見ている。 そして少...