翁島ペンション――窓から覗く女

福島県の山あい。

木々に囲まれた細い道の先に、かつて一軒のペンションが建っていた。

白い壁。
尖った屋根。
そして、森の中からこちらを見つめるような二階の窓。

その建物は、いつしか「幽霊ペンション」と呼ばれるようになっていた。

有名になった理由は、ある噂だった。

――地下のワインセラーで、オーナーが亡くなった。

そして、その姿を最初に見つけた妻は精神的におかしくなり、息子にも悲劇が起きた。

一家にまつわるその噂は、いつしか「この建物には家族の霊が残っている」という話へ変わっていった。

特に有名だったのが、二階の窓だった。

夜になると、そこから女性が外を見ている。

誰かが近づくと、窓の向こうからじっとこちらを見つめている。

そんな話だった。

もちろん、ただの噂だ。

そう思っていた。

ある冬の夜、一人の男がそのペンションの前に立った。

雪の積もった森は、音がなかった。

風もない。

鳥の声もない。

ただ、古びた建物だけが暗闇の中に浮かんでいる。

男は懐中電灯を向けた。

一階。

何もない。

二階。

……何もない。

「やっぱり噂か」

そう呟いた瞬間だった。

カン。

建物の中から、小さな音がした。

誰かが歩いたような音だった。

男はしばらく動けなかった。

だが、音は一度だけ。

気のせいだと思い、建物を離れようとした。

そのとき。

ふと、二階の窓が目に入った。

そこに――

女が立っていた。

真っ白な顔。

長い髪。

そして、窓ガラスに顔を近づけたまま、こちらを見ている。

男は息を呑んだ。

動けない。

女も動かない。

ただ、じっと見ている。

「……誰だ?」

声を出した瞬間。

女の顔が、ゆっくり窓から消えた。

男は逃げるように車へ戻った。

エンジンをかける。

何度もバックミラーを確認する。

二階の窓には、もう何もいない。

「見間違いだ」

そう自分に言い聞かせながら車を走らせた。

数分後。

男は異変に気づいた。

フロントガラスに、何かが付いている。

白い跡だった。

まるで――

小さな手のひら。

一つ。

二つ。

三つ。

子どもの手形が、ガラスいっぱいに残っていた。

男は急ブレーキを踏んだ。

そして、恐る恐る後ろを振り返った。

誰もいない。

だが、その瞬間。

車の後部座席から、

「……おかあさん」

という小さな声が聞こえた。

男は振り返らなかった。

振り返ることができなかった。

その声は、もう一度聞こえた。

「……おかあさん、どこ?」

男はアクセルを踏み込み、その場から逃げ去った。

翌朝。

明るくなってから車を確認すると、フロントガラスについていた手形は消えていた。

ただ、一つだけ。

運転席の窓の内側に、小さな手形が残っていた。

そして男は、その手形を見て気づいた。

昨夜、二階の窓からこちらを見ていた女。

あの女は――

自分を見ていたのではなかった。

女が見つめていたのは、

車の後部座席だった。

現在も翁島ペンションには、女性の霊や子どもの手形など、さまざまな怪談が語られている。

地下室が本当に存在したのか。

そこに何があったのか。

そして、二階の窓から見えるという女性は誰なのか。

その答えは、今も分からない。

ただ一つだけ。

この場所を語る人々の間では、こんな言葉が残っている。

――夜の窓を見上げてはいけない。

もし二階から誰かがこちらを見ていても、

決して目を合わせてはいけない。

なぜなら――

目が合った瞬間、

向こうもあなたを「見つけた」と思ってしまうからだ。

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