木の岡ビオトープ――夜の湿地に立つ女
その場所には、かつて巨大な建物が建っていた。
琵琶湖のほとりに残された、完成することのなかった建物。
長い間、人の気配がなくなったことで、いつしか「幽霊ビル」と呼ばれるようになったという。
やがて建物は撤去され、その周辺には草木が生い茂り、現在では木の岡ビオトープとして自然が残されている。
これは、そんな場所で起きたという、ある奇妙な話だ。
数年前の夏。
大学生の男が、友人二人と木の岡ビオトープ周辺を訪れていた。
昼間は自然観察なども行われる場所だったが、その日は夜だった。
「昔ここに、幽霊ビルがあったらしいぞ」
友人の一人が、スマートフォンを見ながら言った。
男は笑った。
「今はもうないんだろ? だったら何も怖くないじゃん」
そう言って、三人は湖の近くまで歩いていった。
夜の湿地は静かだった。
風がほとんどなく、草木がじっと立っている。
遠くから聞こえる車の音。
そして、ときどき水面が小さく揺れる音。
三人が歩いていると、突然、一人が足を止めた。
「……今、誰かいた?」
「え?」
三人が振り返った。
当然、誰もいない。
ただ、暗い木々の間に細い道が続いているだけだった。
「気のせいだろ」
そう言って歩き出した、そのとき。
後ろから、
――ザッ。
草を踏む音がした。
三人とも振り返った。
誰もいない。
また歩く。
――ザッ。
今度は、さっきより近い。
「誰かいる?」
友人が声をかけた。
返事はない。
しかし、その直後だった。
湖の方向から、
「……すみません」
女の声が聞こえた。
三人は凍りついた。
声のした方向を見る。
そこには、白い服を着た女が立っていた。
顔は暗くて見えない。
ただ、じっと三人のほうを見ている。
「……誰?」
男が声をかけた。
女は答えなかった。
その代わり、ゆっくりと湖のほうを指差した。
三人がそちらを見る。
何もない。
もう一度女を見る。
――いない。
「逃げよう!」
三人は走り出した。
車まで戻り、急いで乗り込む。
エンジンをかけようとした、その瞬間。
後部座席から、
「……まだ帰らないで」
女の声がした。
三人は悲鳴を上げた。
誰も後部座席には乗っていない。
それなのに、車内には確かに女の声が響いていた。
そして、フロントガラスの向こう。
暗い草むらの中に、さっきの女が立っていた。
今度は顔が見えた。
しかし――
目がなかった。
ただ真っ黒な穴が二つ、こちらを向いていた。
男がアクセルを踏む。
車はその場から急発進した。
その後、三人は二度と夜の木の岡ビオトープへ行かなかった。
だが、数日後。
三人のうち一人がスマートフォンに残っていた写真を整理していると、妙な写真を見つけた。
木々の間を撮った、何でもない一枚。
しかし、拡大してみると――
木の陰に、白い服の女が立っていた。
そして、その女の足元には、
湖へ向かって続く濡れた足跡が残っていた。
写真を撮った場所は、湖からかなり離れていた。
それなのに、その足跡は湖からこちらへ向かって続いていた。
まるで、
誰かが湖の中から上がってきたかのように。
現在、木の岡ビオトープは豊かな自然が残る場所として保全されている。
だからこそ、夜の静かな森の中で何かを見ても、それが本当に人なのか、それとも別の何かなのか――
確かめる方法はない。
ただ、この場所には長い年月、人のいない時間があった。
そして今も、木々の間には、
誰にも見つからない何かが残っているのかもしれない。
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