昇仙峡――渓谷に響く女の声
山梨県にある昇仙峡は、切り立った岩壁と清流が続く、美しい景勝地として知られている。
昼間は観光客も多く、遊歩道を歩けば、川のせせらぎや鳥の声が聞こえてくる。
しかし、日が落ちると、その印象は大きく変わる。
これは、以前、昇仙峡を訪れた男性から聞いた話だ。
男性が友人と二人で昇仙峡を訪れたのは、秋の終わり頃だった。
観光を終えた二人は、もう少し渓谷を見ていこうと、夕方になってもその場に残っていた。
周囲には、まだ人の姿があった。
ところが、気がつくと、いつの間にか二人以外の観光客がいなくなっていた。
「そろそろ帰ろうか」
そう言って歩き始めた、その時だった。
川の向こう側から、
「……すみません」
という女の声が聞こえた。
二人は足を止めた。
声がした方向を見る。
だが、そこには誰もいない。
「今、女の人いたよな?」
友人に聞くと、友人も小さくうなずいた。
気のせいだろうと思い、そのまま歩き始めた。
すると今度は、さっきより近くから、
「待って……」
と聞こえた。
二人は振り返った。
しかし、やはり誰もいない。
ただ、薄暗い遊歩道と、岩の間を流れる川が見えるだけだった。
急に怖くなった二人は、足早に駐車場へ向かった。
すると、後ろから――
「……待って」
また女の声がした。
今度は、すぐ背後から聞こえたという。
男性は振り返ることができなかった。
隣にいた友人も、黙ったまま歩き続けている。
そして駐車場に着いた瞬間、友人が言った。
「……さっきから、女の人がずっと後ろを歩いてた」
男性は凍りついた。
「見たのか?」
そう聞くと、友人は首を横に振った。
「顔は見てない。でも、足音がずっと三人分だった」
二人は急いで車に乗り込み、その場を離れた。
その後、男性は昇仙峡について調べたが、あの日聞いた声の正体は分からなかったという。
ただ、それ以来、男性は夕方以降の渓谷には近づかなくなった。
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