明治宇津ノ谷隧道――出口のない声
夜の宇津ノ谷峠は、昼間とはまるで別の場所だった。
山の木々が風に揺れ、古い道に葉が擦れる音だけが聞こえている。
男は一人、懐中電灯を手に明治宇津ノ谷隧道へ向かっていた。
レンガ造りの坑口が、闇の中にぽっかりと口を開けている。
「……本当に、ここを通るのか」
自分に言い聞かせるようにつぶやき、男はトンネルへ入った。
中へ入った瞬間だった。
――ヒュウウウ……。
冷たい風が、トンネルの奥から吹いてきた。
外より明らかに寒い。
レンガの壁には湿気がにじみ、足音が何度も反響する。
コツ……コツ……コツ……
男が歩く。
すると、その足音に混じって、もう一つ音が聞こえ始めた。
コツ……
コツ……
コツ……
「……?」
立ち止まる。
音も止まった。
男が再び歩く。
コツ……コツ……
すると、
コツ……コツ……
今度は、少し遅れて同じ音が返ってくる。
「反響……だよな」
そう思いながら歩き続けた。
やがて、トンネルの中央付近まで来た。
そのときだった。
背後から、
「……すみません」
女の声がした。
男の足が止まった。
振り返る。
誰もいない。
「……気のせいか」
そう言って前を向いた。
すると今度は、
「すみません……」
さっきより近い。
男はゆっくり振り返った。
やはり誰もいない。
ただ、遠くの坑口から差し込むわずかな明かりだけが見えている。
その明かりの中に――
人影が立っていた。
女だった。
古い時代の服を着ているように見えた。
男は声をかけようとした。
しかし、その女は動かなかった。
ただ、こちらを見ている。
「……大丈夫ですか?」
男が一歩近づく。
すると女の姿が、
すっと消えた。
「……え?」
男は慌てて後ろへ下がった。
その瞬間。
耳元で、
「出口は……そっちじゃないですよ」
と囁かれた。
男は凍りついた。
声は、完全に耳元から聞こえた。
そして、恐る恐る前を見る。
――出口がない。
さっきまで見えていたはずの出口が、消えていた。
あるのは、延々と続くレンガの壁だけ。
「そんな……」
男は走り出した。
来た方向へ戻ろうとした。
しかし、何メートル走っても坑口が見えてこない。
息が苦しくなる。
足音が響く。
コツコツコツコツ――。
そして。
男の足音とは別に、
もう一人分の足音が聞こえていた。
コツ……コツ……コツ……
後ろから、誰かが歩いてくる。
男は振り返らなかった。
振り返ってはいけない。
なぜか、そう思った。
すると後ろから、
「……待って」
女の声。
男は必死に走った。
「待って……」
声が近づく。
「待ってください……」
すぐ後ろまで来た。
そして、
「私も……出られないんです」
男の背中に、冷たい息がかかった。
その瞬間――
男は叫びながら振り返った。
そこには誰もいなかった。
ただ、地面に一本の古いランタンが置かれていた。
火が、青白く揺れている。
男はそれを見た瞬間、なぜか思った。
――このトンネルでは、昔から誰かが出口を探している。
そして、その「誰か」は、
今も新しく入ってくる人間に、
出口を尋ねているのだ。
男は無我夢中で走った。
すると突然、前方に明かりが見えた。
出口だ。
男は外へ飛び出した。
冷たい夜風を浴び、地面に手をつく。
「……助かった……」
そのとき。
後ろから、
「ありがとうございました」
と女の声がした。
男は振り返らなかった。
振り返ることができなかった。
ただ、トンネルの中から、
コツ……
コツ……
コツ……
と、誰かが歩いてくる音だけが聞こえていた。
翌朝。
男は自分が撮った写真を確認した。
トンネルの中で撮影した写真が一枚だけ残っていた。
そこには、レンガの壁と暗い道が写っていた。
しかし、写真の中央。
男のすぐ後ろに、
古い服を着た女が立っていた。
女はカメラを見ていた。
そして――
その顔には、
目も鼻も口もなかった。
ただ真っ黒な顔の中央に、
小さく一つだけ、
赤い口が開いていた。
写真を見つめていると、
スマートフォンから突然、
「……出口は、そっちじゃないですよ」
と、女の声が流れた。
男は慌ててスマートフォンを床に落とした。
画面には、撮影時刻が表示されていた。
写真を撮った時間は――
午前二時十三分。
しかし男がトンネルを歩いたのは、
午前一時半だった。
では、
午前二時十三分に、
あの写真を撮ったのは誰だったのか。
それ以来、男は二度と宇津ノ谷隧道へ近づいていない。
ただ一つだけ、
今でも理解できないことがある。
あの夜、最後に聞いた女の言葉。
「ありがとうございました」
あれは、
男に向けた言葉ではなかった。
後日、写真を拡大して分かった。
女は男ではなく、
男の背後にいる「何か」に向かって、
頭を下げていた。
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