『軍艦島の最後の灯り』
夜の海は、異様なほど静かだった。
長崎港を出た船の上で、俺は遠ざかっていく陸地を眺めていた。
やがて水平線の向こうから、黒い影が浮かび上がる。
軍艦島――端島。
巨大な護岸と、廃墟となった高層住宅。
遠くから見ると、本当に海に浮かぶ軍艦のようだった。
「夜の軍艦島って、やっぱり怖いな」
隣にいた友人が笑った。
俺たちは廃墟を撮影するため、昼間に島を訪れていた。
しかし、その日は天候不良で予定より早く引き上げることになった。
ところが――。
船が島を離れようとした瞬間、友人が叫んだ。
「待って。あそこ……誰かいる」
指差した先は、島の古い集合住宅だった。
真っ暗なはずの窓の一つに、小さな明かりが灯っていた。
「見間違いだろ」
そう言った直後。
明かりが、二階へ移動した。
そして三階。
四階。
まるで誰かが、階段を上っているように。
「……おかしくない?」
俺たちは黙り込んだ。
その瞬間、船のエンジンが突然止まった。
波の音だけが聞こえる。
船員が機関室へ走っていった。
俺はもう一度、島を見た。
すると――。
さっきまで一つだった明かりが、いくつも増えていた。
集合住宅の窓。
学校のような建物。
暗い路地。
そこら中に、ぽつ、ぽつ、と黄色い明かりが灯っていく。
まるで島全体に、かつての暮らしが戻ってきたようだった。
そして。
「……聞こえる?」
友人が震えた声で言った。
耳を澄ます。
遠くから、かすかに声が聞こえた。
――カン、カン、カン。
金属を叩く音。
続いて、何人もの人間が話す声。
笑い声。
子供の声。
生活の音。
俺は背筋が凍った。
廃墟になって何十年も経つ島から、そんな音が聞こえるはずがない。
すると突然。
島の一番高い建物の窓に、人影が現れた。
一人。
二人。
三人。
やがて窓という窓に、人影が立ち始めた。
誰も動かない。
ただ、海の上にいる俺たちを見つめている。
その中の一人が、ゆっくりと手を上げた。
そして――。
手招きをした。
友人が後ずさる。
「帰ろう……」
その直後、エンジンが再び動き出した。
船が島から離れていく。
俺は最後に一度だけ振り返った。
島の明かりは、いつの間にか全部消えていた。
ただ一つ。
一番端の建物の窓だけに、明かりが残っている。
その窓には、まだ誰かが立っていた。
そして、その人物は俺たちに向かって手を振っていた。
翌朝。
撮影した映像を確認すると、不思議なことが分かった。
島の窓を撮影した映像。
そこには確かに、人影が映っていた。
だが――。
俺たちが船から見ていた人数より、一人多かった。
しかも、その最後の一人は。
俺たちのすぐ後ろに立っていた。
映像の中で、そいつはずっと笑っていた。
そして最後のフレーム。
そいつの口が、ゆっくり動いていた。
音声を最大まで上げる。
すると、かすかな声が聞こえた。
――「また、来てね」
その日以来。
友人は二度と軍艦島の話をしなくなった。
そして俺の部屋には、今でも一枚だけ写真が残っている。
真夜中の軍艦島。
誰もいないはずの廃墟の窓に――
こちらを見つめる人影が、ひとつ。
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