千波湖――水面に立つ女
夜の千波湖を歩くときは、水面を見ないほうがいい。
地元では、そんな話をする人がいる。
ある夜、一人の男が千波湖の周りを歩いていた。
昼間とは違い、夜の湖は驚くほど静かだった。
街灯に照らされた遊歩道を進んでいると、ふと湖の中央付近に人影が見えた。
「……誰だ?」
目を凝らす。
湖の上に、女が立っていた。
腰まである長い髪。
白い服。
そして、こちらに背を向けたまま、じっと水面に立っている。
男は最初、何かの見間違いだと思った。
しかし、数秒後。
女がゆっくりと振り返った。
距離があるはずなのに、なぜか顔だけははっきり見えた。
女は笑っていた。
そして、口を動かした。
声は聞こえない。
だが、男には何と言っているのか分かった。
――こっちに来て。
男は怖くなり、その場から逃げようとした。
ところが、背後から水の音がした。
振り返る。
誰もいない。
もう一度、湖を見る。
女の姿も消えていた。
安心して歩き出した、そのときだった。
ポケットの中のスマートフォンが震えた。
画面を見る。
そこには、見覚えのない写真が一枚送られていた。
写真に写っていたのは、夜の千波湖。
そして湖の中央に立つ女。
男は息をのんだ。
なぜなら、その写真は――
男の背後から撮影されたものだった。
その瞬間、耳元で小さな声がした。
「……見つけた」
男が振り返る。
そこには誰もいなかった。
ただ、遊歩道のすぐ脇まで、湖の水が不自然に広がっていた。
翌朝。
湖畔には、男のスマートフォンだけが落ちていたという。
最後に撮影された写真には、暗い水面と、その水面から伸びた一本の白い手が写っていた。
それ以来、夜の千波湖では、ときどき湖の上に立つ女を見たという話が囁かれている。
そして、その女を見た人には共通していることがある。
女はいつも、こう言うのだという。
――「今度は、あなたがこっちに来て」
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