水戸市某廃アパート
水戸市の住宅街から少し外れた場所に、長いあいだ使われていない古いアパートがあった。
四階建ての小さな建物で、窓ガラスは何枚も割れ、外壁には黒い染みが広がっている。
地元では、そこを「近づかないほうがいい場所」と呼ぶ人もいた。
ある夏の夜、私は友人と二人で、その廃アパートを見に行った。
建物の中へ入ると、廊下には湿った空気がこもっていた。
一階、二階、三階。
特に変わったことはなかった。
ところが、四階へ上がったときだった。
廊下の一番奥にある部屋の前だけ、なぜか床が濡れていた。
雨は降っていない。
不思議に思いながら近づくと、部屋の中から、
「……コン、コン」
と小さな音が聞こえた。
誰かが壁を叩いているようだった。
友人が冗談半分に、
「まだ誰か住んでるんじゃない?」
と言った。
そして、その部屋のドアに手をかけた。
鍵はかかっていなかった。
ゆっくりドアを開ける。
部屋の中は真っ暗だった。
家具は何もなく、壁紙も剥がれ落ちている。
ただ、部屋の奥に古い姿見だけが残されていた。
その瞬間、友人が黙り込んだ。
「……なあ」
「どうした?」
「鏡、見てみろよ」
私は鏡を見た。
そこには、私たち二人が映っていた。
しかし、その後ろ。
廊下には誰もいないはずなのに、鏡の中にはもう一人、女の姿が立っていた。
長い髪で顔が隠れている。
私は反射的に振り返った。
当然、誰もいない。
もう一度鏡を見る。
女は、消えていた。
「帰ろう」
友人が震えた声で言った。
私たちは急いで部屋を出た。
階段を下りようとした、そのときだった。
四階の廊下の奥から、
「……コン、コン」
また音がした。
今度はさっきより近い。
そして、
「……コン、コン、コン」
少しずつ音がこちらへ近づいてくる。
私たちは一気に階段を駆け下りた。
外へ出てから、友人がスマートフォンを確認した。
すると、さっき撮った写真が一枚だけ残っていた。
四階の廊下を撮影した写真だった。
そこには、私たち二人の背後に、長い髪の女が立っていた。
そして写真を拡大すると、さらにおかしなものが写っていた。
女の足元。
そこには、濡れた足跡が続いていた。
四階の奥から、私たちのところまで。
だが、その足跡はそこで終わっていなかった。
写真の手前。
つまり、撮影している私たちの足元まで続いていた。
それ以来、私はその写真を見返していない。
ただ一つだけ、今でも気になっている。
あの夜、私たちがアパートを出たあと。
四階のあの部屋から聞こえた、
「コン、コン」
という音。
あれは、誰かが壁を叩いていた音ではなかった。
後になって写真を見た友人が、ぽつりと言った。
「あれ……ドアを叩いてたんじゃないか?」
そう言われて、私は初めて気づいた。
あの音はずっと、
私たちがいる方向へ近づいていた。
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