茶臼山――夜道に立つ女
長野県の茶臼山周辺には、昼間には想像できないほど静かな場所がある。
山道に入ると、街の明かりは次第に遠ざかり、聞こえてくるのは木々のざわめきと、自分の足音だけ。
ある男性が、友人と二人で茶臼山周辺を訪れたのは、夜の十一時を過ぎた頃だった。
「こんなところ、本当に何か出るのか?」
友人が笑いながら言った。
二人は懐中電灯を手に、暗い道を歩いていた。
すると突然、前方に人影が見えた。
白っぽい服を着た女性だった。
こんな時間に、こんな山道を一人で歩いている。
二人は不思議に思ったが、女性は何も言わず、ゆっくりと道の奥へ歩いていく。
「声かけてみる?」
そう言った友人を、男性が止めた。
なぜか分からない。
ただ、あの女性には近づいてはいけない。
そんな嫌な感覚がした。
そのまま二人は女性と距離を取り、反対方向へ戻ることにした。
ところが――
数分歩いたところで、また女性が前方に立っていた。
「……え?」
二人は立ち止まった。
女性は先ほどと同じ服装。
俯いたまま、じっと立っている。
「さっきの人だよな?」
男性がそう言った瞬間、女性がゆっくり顔を上げた。
しかし、その顔には目も鼻も口もなかった。
真っ白な顔だった。
二人は声も出せず、その場から走って逃げた。
ようやく車まで戻り、急いでエンジンをかける。
そのとき、友人が後部座席を見て凍りついた。
「……いる」
「何が?」
「さっきの女……」
男性がバックミラーを見る。
後部座席には誰もいない。
しかし、曇った窓ガラスにだけ――
内側から誰かが指で文字を書いた跡が残っていた。
そこには、
「ひとりにしないで」
と書かれていた。
男性がアクセルを踏み、車を走らせる。
茶臼山を離れるまで、二人は一言も話さなかった。
そして翌朝。
車を確認すると、後部座席のシートに濡れた足跡が残っていた。
その足跡は一つだけ。
まるで誰かが、
夜の山道から車の中へ入り込んできたように――。
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