裾花川――川面に立つ女

長野市を流れる裾花川。

昼間は穏やかに水が流れ、川沿いでは散歩をする人の姿も見られる。

しかし、夜になると、この川には昔から妙な噂がある。

「夜の川で、女を見ても声をかけるな」

そう言われるようになったのは、ある出来事がきっかけだった。

ある夏の夜、一人の男性が裾花川沿いを歩いていた。

時計を見ると、午後11時を少し過ぎていた。

周囲には人影がなく、聞こえるのは川の流れる音だけ。

そのときだった。

川の向こう岸に、白い服を着た女が立っているのが見えた。

こんな時間に、なぜ川辺にいるのだろう。

男性が目を凝らすと、女はじっとこちらを見ていた。

顔まではよく見えない。

だが、明らかにこちらを見ている。

男性は少し気味が悪くなり、そのまま通り過ぎようとした。

すると――

「……すみません」

小さな声が聞こえた。

男性が振り返る。

女はまだ川の向こうに立っている。

そして、今度ははっきり聞こえた。

「こっちに来て……」

男性は思わず足を止めた。

しかし、何かがおかしい。

川幅はそれなりにある。

それなのに、女の声だけが異様なほど近くから聞こえる。

まるで耳元で囁かれているようだった。

男性は怖くなり、その場を離れようとした。

その瞬間――

川の水面に、もう一つの人影が映った。

女の姿だった。

だが、川岸に立っている女は一人しかいない。

男性が水面を見る。

そこには、女と並ぶようにして、もう一人の女が立っていた。

しかも、その水面に映った女だけが、ゆっくりこちらへ近づいてくる。

男性は走って逃げた。

後ろから、

「待って……」

という声が何度も聞こえた。

振り返ることはできなかった。

翌朝、男性はもう一度その場所を訪れた。

当然、女の姿はない。

だが、川岸の泥の上には奇妙な足跡が残っていた。

男性が立っていた場所から、川へ向かって続く足跡。

そして――

川の中から岸へ上がってくる足跡。

二人分の足跡が、途中で重なっていた。

その後、男性は二度と夜の裾花川へ近づかなくなったという。

裾花川は、かつて大雨によって流れを変え、周辺に大きな水害をもたらしてきた川でもある。昭和24年にも豪雨によって堤防が決壊し、長野市街地が大きな被害を受けた記録が残っている。

だからなのだろうか。

今でも夜の川面を見ていると、

水の中から誰かがこちらを見ているように感じることがある。

もし夜の裾花川で、川の向こうに白い服の女を見かけても――

決して声をかけてはいけない。

なぜなら、

その女が立っている場所と、水面に映っている場所は、同じとは限らないからだ。

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