戸隠神社――杉並木の向こうから聞こえる声
秋も深まった、ある夜のことだった。
男は一人で、長野県の戸隠神社を訪れていた。
昼間の参拝客が帰ったあと、静まり返った参道を歩いていると、周囲を覆う杉の木々が、昼間とはまるで違う表情を見せていた。
奥社へ向かう参道は長く、途中には随神門があり、その先には樹齢数百年ともいわれる杉並木が続いている。
男がその杉並木に入ったときだった。
――カツン。
背後から、石を踏むような音がした。
振り返る。
誰もいない。
「……気のせいか」
そう呟いて歩き始める。
すると、
――カツン。
また聞こえた。
今度は、さっきより近い。
男は足を止めた。
静寂の中、風で木の葉が揺れる音だけが聞こえている。
そして、その直後だった。
「……すみません」
背後から、女の声がした。
男はゆっくり振り返った。
やはり誰もいない。
だが、声は確かに聞こえた。
「すみません……」
今度は、杉並木の奥からだった。
男は怖くなりながらも、声のした方向を見る。
すると、遠くの木々の間に、人影が立っていた。
白っぽい服を着た女のように見える。
男が目を凝らした瞬間――
その人影が、こちらへ一歩近づいた。
そして、もう一歩。
男は反射的に後ずさった。
そのとき、スマートフォンが突然震えた。
画面を見ると、何も表示されていない。
それなのに、通話中になっている。
耳に当てる。
すると電話の向こうから、
「……振り返らないで」
という女の声が聞こえた。
男は息を呑んだ。
今、自分の背後には誰かがいる。
そう思った。
だが、声はさらに続いた。
「あなたの後ろに……私がいるから」
男は走った。
振り返らず、ひたすら参道を戻った。
背後からは、
――カツン。
――カツン。
石を踏む音が一定の間隔で追いかけてくる。
そして、随神門が見えた瞬間。
その音が突然止まった。
男はそのまま参道を駆け抜け、車まで戻った。
翌朝。
昨夜のことが気になった男は、スマートフォンを確認した。
すると、昨夜の「通話履歴」に一件だけ記録が残っていた。
発信先は――
自分自身の番号。
そして通話時間は、
午前2時22分。
男は首を傾げた。
だが、それ以上に恐ろしかったのは、その通話記録に残っていた留守番電話だった。
再生すると、最初は何も聞こえない。
しばらくして、小さな女の声が入った。
「……まだ、後ろにいるよ」
男はその瞬間、スマートフォンを床に落とした。
それ以来、男は戸隠を訪れていない。
そして今でも、夜中に一人で歩いていると、
背後から石を踏むような音が聞こえることがあるという。
――カツン。
――カツン。
まるで、杉並木の向こうから誰かがゆっくり近づいてくるように。
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