南原峡――川の向こうから聞こえる声
夜の南原峡は、昼間とはまるで別の場所だった。
山に囲まれた細い道には街灯も少なく、車のヘッドライトを消せば、目の前にあるはずの木々さえ見えなくなる。
その日、私は友人と二人で南原峡を訪れていた。
時刻は午前一時を過ぎていた。
「……静かすぎないか?」
友人がそう言った。
確かに妙だった。
川が流れているはずなのに、水の音がほとんど聞こえない。
風もない。
虫の声すらしない。
ただ、山の奥から時々、
――パキッ。
と、枝が折れる音だけが聞こえていた。
私たちは車を降り、川の近くまで歩いていった。
懐中電灯で足元を照らしながら進んでいると、突然、友人が立ち止まった。
「今……誰か呼んだ?」
「え?」
私は聞き返した。
友人は川の向こうを見つめていた。
「女の声だった」
私は何も聞いていなかった。
「気のせいじゃない?」
そう言って歩き出そうとした、その時だった。
――ねえ。
はっきり聞こえた。
今度は私にも聞こえた。
声は川の向こう側からだった。
――ねえ……。
女の声。
小さく、寂しそうな声だった。
私たちは顔を見合わせた。
「誰かいるのか?」
友人が川の向こうへ声をかけた。
返事はなかった。
しかし数秒後、
――ザッ。
川岸の向こうで、何かが動いた。
懐中電灯を向ける。
そこには誰もいない。
ただ、木々の間に黒い影が立っているように見えた。
「……人?」
友人が一歩前へ出た。
すると影が、ゆっくりこちらを向いた。
顔は見えない。
だが、次の瞬間――
――ジャリ……。
川の中から、足音がした。
水の中を誰かが歩いている。
一歩。
また一歩。
こちらへ近づいてくる。
「戻ろう」
私は友人の腕をつかんだ。
だが友人は動かなかった。
なぜか川の向こうをじっと見つめている。
「……あれ、俺の母親だ」
「何言ってるんだよ」
「いや……絶対そうだ」
友人の声が震えていた。
「亡くなった母親が、あそこにいる」
私は川の向こうを見た。
黒い影が立っていた。
そして影の足元から、
――ポタ……
――ポタ……
と、水が落ちている。
その影が、ゆっくり顔を上げた。
顔は真っ黒だった。
目も鼻も口もない。
ただ、その真っ黒な顔の中央で、口だけがゆっくり開いた。
そして、
「……こっちに来て」
そう言った。
友人が川へ向かって歩き始めた。
「おい!」
私は必死に腕をつかんだ。
しかし友人は私を振りほどこうとする。
「母さんが呼んでる……」
「違う! あれはお前の母親じゃない!」
その瞬間だった。
川の向こうから、今度は何人もの声が重なった。
「こっちに来て」
「こっちに来て」
「こっちに来て」
男の声。
女の声。
子供の声。
老人の声。
それらが重なり合い、峡谷いっぱいに響いた。
私は恐怖で足が動かなかった。
そして懐中電灯を川へ向けた。
そこで初めて気づいた。
川の中に――
無数の足跡があった。
水の中からこちらへ向かって続いている。
しかも、その足跡は私たちのところまで来ると、そこで途切れていた。
「……逃げろ」
友人が突然そう呟いた。
「え?」
「もう、後ろにいる」
振り返ってはいけない。
そう思った。
だが、背後から、
――ポタ……
――ポタ……
と、水が滴る音が聞こえた。
そして耳元で、
「ねえ……」
女の声がした。
私は友人の手をつかみ、夢中で車まで走った。
後ろから何度も足音が追いかけてきた。
――ザッ。
――ザッ。
――ザッ。
車に飛び乗り、エンジンをかける。
その瞬間、友人が叫んだ。
「バックミラー見るな!」
だが、私は見てしまった。
後部座席に――
濡れた女が座っていた。
長い髪が顔を完全に覆っている。
そして、その髪の隙間から、
真っ白な目が二つだけこちらを見ていた。
私はアクセルを踏み込んだ。
車が南原峡を抜けるまで、一度も後ろを見なかった。
翌朝。
友人に電話をすると、何度かけても出なかった。
昼になってようやく電話がつながった。
「昨日のこと、覚えてるか?」
そう聞くと、友人はしばらく黙っていた。
そして、小さな声でこう言った。
「……昨日、俺たち二人で行ったんだよな?」
「そうだよ」
「じゃあ……」
友人の声が震えた。
「車の後部座席にいた女、誰だった?」
私は答えられなかった。
なぜなら――
昨夜、車の後部座席には誰も乗っていなかったからだ。
そして今でも時々、友人の車の後部座席から、
濡れた足跡が一つずつ、
運転席へ向かって続いているという。
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