黄泉比良坂――帰ってきた女
夕方、私は島根県にある黄泉比良坂を訪れた。
ここは、日本神話で知られる「黄泉の国」と現世の境目とされる場所だ。
昼間なら静かな山道に見える。
しかし、日が沈み始めると、辺りの空気は一変した。
木々の間から差し込んでいた光が消え、鳥の声さえ聞こえなくなった。
私は坂道をゆっくり歩いていた。
すると、少し先から、
「……すみません」
女の声が聞こえた。
振り返ったが、誰もいない。
気のせいだと思い、そのまま歩き続けた。
ところが数メートル進んだところで、また声がした。
「……すみません」
今度は、すぐ後ろだった。
私は恐る恐る振り返った。
そこには、白い服を着た女が立っていた。
長い髪で顔はよく見えない。
「どうしました?」
そう声をかけると、女はゆっくり顔を上げた。
そして、小さな声で言った。
「私……帰れないんです」
その言葉を聞いた瞬間、背筋が凍った。
ここは黄泉比良坂。
昔から、あの世とこの世の境目だと伝えられている場所だ。
冗談では済まされない気がした。
「帰る場所はどこですか?」
そう尋ねると、女は坂の奥を指差した。
「向こうです」
私は反射的に、その方向を見た。
だが、そこには誰もいない。
もう一度女を見る。
すると――
女の姿が消えていた。
その瞬間、遠くから女の声が聞こえた。
「……待って」
私は怖くなり、急いで坂を下り始めた。
しかし、背後から足音がついてくる。
一歩。
また一歩。
私が歩けば、足音も歩く。
私が立ち止まると、足音も止まった。
そして突然、
「……どうして帰るの?」
耳元で声がした。
私は振り返らなかった。
そのまま必死に坂を下り、車まで戻った。
エンジンをかけ、急いでその場を離れた。
しばらく走ったところで、ようやく安心してバックミラーを見た。
すると、後部座席に――
白い服の女が座っていた。
私は声も出せなかった。
だが、次の瞬間。
女は鏡越しにこちらを見て、こう言った。
「……私も帰ってきちゃった」
その瞬間、車の中の温度が急激に下がった。
私は慌てて車を停め、後部座席を確認した。
そこには誰もいなかった。
ただ、シートの上には濡れた泥の跡が残っていた。
その後、私は二度と黄泉比良坂へ行っていない。
そして今でも、ときどき思う。
あのとき私が振り返らなかったら――
あの女は、本当に私の車までついてきていたのだろうか。
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