保津峡――川面から聞こえる声
京都の保津峡には、昼間とはまるで違う顔がある。
深い山々に挟まれた峡谷を、保津川が静かに流れている。
観光客が多い場所として知られているが、日が落ちると周囲は一気に暗くなり、川の流れる音だけが山の中に響く。
これは、そんな保津峡で起きたという話だ。
ある秋の夜、二人の若者が車で保津峡の近くまでやって来た。
「せっかくだし、少し歩いてみようぜ」
時計を見ると、夜の11時を過ぎていた。
昼間なら人の気配がある場所も、夜になるとほとんど誰もいない。
二人は懐中電灯を手に、川が見える場所まで歩いていった。
山の中は驚くほど静かだった。
聞こえるのは、水が岩にぶつかる音と、木々が風に揺れる音だけ。
そのときだった。
「……おーい」
突然、川の方から声が聞こえた。
二人は顔を見合わせた。
「今、誰か呼んだ?」
「……聞こえた」
声は確かに人の声だった。
しかし、川沿いには誰もいない。
二人が懐中電灯を向けても、暗闇の中に人影は見えなかった。
すると、もう一度。
「……おーい」
今度は先ほどより近い。
「誰かいるんですか?」
一人が川へ向かって声を返した。
返事はない。
ただ、川の流れる音だけが続いている。
二人は少し不気味になり、戻ろうとした。
その瞬間――
「待って……」
今度は、すぐ後ろから聞こえた。
二人が同時に振り返る。
誰もいない。
だが、懐中電灯の光が照らした地面には、濡れた足跡が残っていた。
一つ。
また一つ。
まるで誰かが、川の中から上がってきて、そのまま二人の後ろまで歩いてきたように。
二人は何も言わず、急いで車へ戻った。
そしてエンジンをかけた直後だった。
車の後部座席から、
「……帰らないで」
という声が聞こえた。
二人は凍りついた。
後部座席には誰もいない。
それでも、車内には確かに誰かの気配があった。
慌てて車を走らせ、保津峡を離れた二人。
しばらくして、ようやく落ち着いた頃、一人がスマートフォンを確認した。
そこには、先ほど撮影した動画が残っていた。
再生してみる。
暗い川。
木々。
そして、二人の会話。
ところが、動画の最後。
二人が車へ戻ろうとしている場面で、川の方向から小さな声が入っていた。
「……一人、足りない」
二人は顔を見合わせた。
もちろん、その場にいたのは最初から二人だけだった。
しかし、その動画には――
二人の少し後ろを歩く、濡れた人影が映っていたという。
そして不思議なことに、その人影は二人が車に乗り込む直前まで、ずっと二人の後ろをついてきていた。
保津峡の夜。
川の音に紛れて聞こえる声が、誰のものなのか。
今も分かっていない。
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