深泥池――水面に立つ女

京都の深泥池には、昔から妙な噂がある。

夜になると、池のほとりに女が立っている。

白い服を着た女で、遠くから見ると、池を眺めているように見える。

だが、近づいてはいけない。

そう言われていた。

ある夏の深夜、二人の男が深泥池を訪れた。

「本当に出るのかよ」

「さあな。でも、見てみたいだろ?」

二人は懐中電灯を手に、池の近くまで歩いていった。

昼間なら何でもない場所だった。

しかし夜になると、空気がまるで違った。

虫の声すら妙に遠く聞こえる。

そして池の水面には、風もないのに小さな波紋が広がっていた。

「……誰かいる」

片方の男が呟いた。

池の向こう側。

木々の間に、白い人影が立っていた。

女だった。

背中を向けている。

二人は顔を見合わせた。

「人……だよな?」

「たぶん」

声をかけようと、一歩近づいた。

その瞬間。

女がゆっくり振り返った。

懐中電灯の光が顔を照らす。

――顔がなかった。

目も、鼻も、口もない。

ただ真っ白な皮膚だけが、そこに張り付いていた。

「うわっ!」

二人は慌てて逃げ出した。

だが、数メートル走ったところで、一人が立ち止まった。

「待て!」

「どうした!」

男は震える手で池を指差した。

「……あの女、こっちに来てる」

振り返る。

さっきまで池の向こうにいた女が、いつの間にかこちら側に立っていた。

距離は、ほんの数十メートル。

そしてまた、一歩。

女が歩く。

一歩。

また一歩。

足音は聞こえない。

なのに、距離だけが確実に縮まっていく。

二人は車まで走った。

ドアを開け、急いで乗り込む。

エンジンをかける。

しかし、なかなか車が動かない。

「早く!」

「分かってる!」

何度もキーを回す。

そのときだった。

――コン。

窓を叩く音がした。

二人は凍りついた。

助手席側の窓を見る。

そこには、さっきの女が立っていた。

顔のない白い顔を、窓にぴったりと押しつけている。

そして女の手が、ゆっくり窓をなぞった。

――コン。

――コン。

――コン。

男は必死にキーを回した。

ようやくエンジンがかかる。

車は急発進した。

そのまま池から離れ、何キロも走った。

しばらくして、ようやく二人は口を開いた。

「……助かった」

「もう二度と来ない」

そのとき。

後部座席から、かすかな声が聞こえた。

「……どうして?」

二人の顔から血の気が引いた。

恐る恐るバックミラーを見る。

誰もいない。

しかし、後部座席のシートには、

濡れた足跡が二つ。

池の水で濡れた足跡が、後部座席から運転席のすぐ後ろまで続いていた。

そして最後の足跡だけが、

運転席の肩のあたりで途切れていた。

その後、二人は二度と深泥池について話さなかったという。

ただ一人だけ。

数年後、あの夜のことを聞かれた男は、こう答えた。

「池から逃げたんじゃない」

「俺たちが連れて帰ってきたんだよ」

「……あの女を」

コメント