夜の薗原ダム
夜の薗原ダムには、できるだけ近づかないほうがいい。
そう忠告されたのは、まだ夕方だった。
「橋の上で、女の声を聞いても振り返るな」
友人は冗談めかしてそう言った。
私は笑いながら、車をダムへ向けた。
山道を進むにつれて、周囲から音が消えていく。
聞こえるのは、タイヤが道路を擦る音と、遠くで流れる水の音だけ。
やがて、赤い橋が見えてきた。
橋の下には、黒く濁った湖面が広がっている。
車を止め、私は一人で橋の上へ歩いていった。
その瞬間だった。
「……すみません」
背後から、女の声がした。
私は反射的に振り返った。
だが、誰もいない。
橋の入口まで戻って見ても、人影はなかった。
気のせいだ。
そう思い、もう一度湖を眺めた。
すると――。
湖面に、白い服を着た女が立っていた。
水の上に立っている。
長い髪が顔を隠し、こちらをじっと見ている。
私は声も出せなかった。
次の瞬間、女がゆっくり顔を上げた。
その顔は見えなかった。
なぜなら――
女の顔が、私の背後を見ていたからだ。
恐る恐る振り返る。
そこには誰もいない。
もう一度湖を見る。
女も消えていた。
慌てて車へ戻ろうとした、そのとき。
橋の下から、
「……返して」
という声が聞こえた。
私は走って車に戻った。
エンジンをかけ、すぐにその場を離れた。
翌朝、撮った写真を確認してみると、一枚だけ妙な写真があった。
橋を撮影した写真。
中央に赤い橋が写っている。
そして、その橋の下。
黒い湖面の中に、白い顔がひとつだけ浮かんでいた。
慌てて写真を削除しようとした。
しかし、その瞬間――。
スマートフォンから、昨日聞いた女の声が流れた。
「……返して」
私は凍りついた。
声の直後、画面に新しい写真が表示された。
撮った覚えのない写真だった。
そこには、夜の橋の上に立つ私自身が写っていた。
そして私のすぐ後ろには、
白い服の女が立っていた。
その女の顔だけが、はっきりとこちらを向いていた。
それ以来、私は薗原ダムには行っていない。
ただ、一つだけ気になることがある。
あの写真を撮った人物が誰だったのか。
私は橋の上で、一度も振り返っていない。
それなのに――
写真には、私の背後に立つ女が写っていた。
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