宝ヶ池の水面に立つ女
京都の宝ヶ池には、夜になると湖の周りを歩いてはいけない――。
そんな噂を、私は昔から聞いていた。
特に怖いのが、深夜に池の水面を見てはいけないという話だった。
「もし水面に、自分以外の人間が映ったら……絶対に振り返るな」
そう言われていた。
ある夏の夜。
私は友人と二人で宝ヶ池を訪れた。
時計は午前一時を過ぎていた。
昼間なら人の姿もある池だったが、その時間になると辺りは驚くほど静かだった。
聞こえるのは、木々が風に揺れる音と、遠くから聞こえる車の音だけ。
池の水面は真っ黒で、街灯の光をぼんやりと反射していた。
「なんか……本当に怖いな」
友人がそう言った。
私は笑いながら、
「何もないって」
と答えた。
そのときだった。
池の水面に、人影が映った。
私たちの前には誰もいない。
それなのに、水面には――
女が一人、立っていた。
長い髪。
白っぽい服。
顔は俯いていて、よく見えない。
私は一瞬、言葉を失った。
「……おい」
友人が小声で言った。
「水面……見ろ」
私はもう一度、水面を見た。
女は、こちらを向いていた。
顔は見えない。
だが、明らかにこちらを見ている。
そして次の瞬間。
水面に映った女が、ゆっくりと歩き始めた。
こちらへ向かって。
「逃げよう」
友人が私の腕を掴んだ。
二人で池から離れようとした、その瞬間だった。
背後から、
「……待って」
女の声が聞こえた。
私たちは振り返らなかった。
ただ必死に歩いた。
すると今度は、すぐ後ろから、
「どうして振り返らないの?」
と聞こえた。
声は女だった。
しかし――
その声は、私のすぐ隣から聞こえた。
私は思わず横を見た。
誰もいない。
友人も青ざめた顔で前だけを見ている。
そして、池から十分ほど離れたところまで来たとき。
友人が突然立ち止まった。
「……お前」
「何?」
「さっきから……一人多くないか?」
冗談だと思った。
だが、友人の視線は私の後ろに向いていた。
私は振り返れなかった。
そのとき、耳元で小さな声がした。
「……やっと気づいた」
翌朝。
私は一人で目を覚ました。
昨夜のことを確認しようと友人に電話した。
しかし、何度かけても出ない。
不思議に思って共通の友人に連絡すると、返ってきた答えは予想もしないものだった。
「昨日? お前、一人で行ったんじゃないの?」
私は凍りついた。
昨夜、一緒にいた友人のことを誰も知らない。
そしてスマートフォンを見ると、昨夜撮ったはずの写真が一枚だけ残っていた。
宝ヶ池の夜景を撮った写真だった。
池の水面には、私が一人で立っている。
その後ろには――
長い髪の女が立っていた。
そして写真の端には、もう一人。
私が一緒に歩いていたはずの友人が、池の中に立っていた。
こちらを向いて笑っていた。
それ以来、私は夜の池を見ることができなくなった。
ただ、今でも時々。
夜道を歩いていると、水たまりに人影が映ることがある。
私の後ろに、誰かが立っている。
そんなときは、絶対に振り返らない。
なぜなら――
あの夜、最後に聞いた女の声を、今でも覚えているからだ。
「振り返ったら……今度は、あなたが池に映る番だから」
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