枕木山廃ラブホテル――帰れない部屋
深夜0時を過ぎたころ、男は一人で枕木山を車で走っていた。
目的は、山の中腹にある廃ラブホテル――「ホテル・シャモニー」。
そこでは昔から、白い服を着た女が二階のベランダに立っているという噂があった。
男は半信半疑だった。
「どうせ誰かが作った話だろ」
そう呟きながら、車を止めた。
辺りには街灯もなく、聞こえるのは山の中を流れる水の音だけ。
懐中電灯を手に、男は廃ホテルへ近づいた。
建物はひどく荒れていた。
壁には落書きが残り、窓ガラスは割れている。
そして二階を見上げた瞬間――
男は足を止めた。
ベランダに、誰かが立っていた。
白い服を着た女だった。
長い髪で顔は見えない。
男は慌ててカメラを向けた。
しかし、シャッターを切った瞬間。
女の姿は消えていた。
「……え?」
男は恐る恐る二階へ向かった。
廊下を進み、女が立っていた部屋の前まで来る。
ドアは半分開いていた。
中には何もない。
ただ、部屋の奥から――
「……カタン」
小さな音がした。
男がライトを向ける。
そこには、古びた椅子が一脚だけ置かれていた。
そして椅子の上には、一枚の古い写真。
男は写真を拾い上げた。
そこには、かつて営業していたホテルの客らしき男女が写っていた。
だが、その写真の隅に――
さっきの女が立っていた。
「……なんで?」
男が写真を裏返す。
裏には、震えるような文字でこう書かれていた。
「この部屋から出ないで」
その瞬間だった。
背後でドアが閉まった。
バタン――。
男は振り返った。
誰もいない。
ドアノブを回す。
しかし、開かない。
「おい……冗談だろ」
何度回しても開かない。
すると、廊下の向こうから、
ペタ……
ペタ……
と、裸足で歩くような音が聞こえてきた。
音は少しずつ近づいてくる。
ペタ……
ペタ……
ペタ……
男は息を殺した。
やがて、足音が部屋の前で止まった。
そして――
ドアの向こうから、女の声がした。
「……あなたも、帰れないの?」
男は凍りついた。
その声は、さっき見た女のものだった。
「帰りたい……」
男が震えながら答える。
すると女は、小さく笑った。
「だったら……後ろを見ないで」
男は意味が分からなかった。
だが、その瞬間。
自分の背後から――
子供の声が聞こえた。
「おじちゃん……」
男の全身から血の気が引いた。
「……誰?」
「ねえ……」
子供の声が、耳元で囁く。
「どうして、私を置いて帰るの?」
男は耐えきれず、振り返った。
そこには――
おかっぱ頭の少女が立っていた。
真っ白な顔。
そして、真っ黒な目。
少女はじっと男を見つめていた。
「……一緒に帰ろ?」
その瞬間、部屋の電気がないはずなのに、天井の照明が突然点いた。
男は悲鳴を上げ、ドアへ飛びついた。
今度は、なぜか簡単に開いた。
男は一目散に階段を駆け下り、車へ戻った。
エンジンをかける。
アクセルを踏み込む。
山道を下っていく。
ようやくホテルが見えなくなったところで、男は大きく息を吐いた。
「……助かった」
そう思った瞬間だった。
カーナビから、突然女の声が流れた。
「まだ、帰ってないよ」
男はブレーキを踏んだ。
カーナビを見る。
そこには目的地として――
さっきのホテルが表示されていた。
しかも、目的地までの距離は、
「0m」
男は恐る恐るバックミラーを見た。
後部座席には誰もいない。
……と思った。
だが、鏡の端に白い服が映っていた。
女が、男のすぐ後ろに立っていた。
そして女は、ゆっくりと笑った。
「次は……あなたが泊まる番」
その夜以来、男の車は山の麓で発見された。
車内には男の姿はなかった。
ただ、助手席には一枚の古い写真が置かれていた。
そこには――
ホテルの前に立つ男と、
その背後に並ぶ二人の女と、一人の少女が写っていた。
写真の裏には、新しい文字が一行だけ増えていた。
「あと一人。」
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