己斐峠――夜道に立つ女

広島の己斐峠には、夜になると「あまり一人で通らないほうがいい」と言われる場所がある。

山道は昼間なら何の変哲もない。

しかし、日が落ちると街の明かりが遠ざかり、木々の隙間から見える道路だけが、闇の中に細く浮かび上がる。

これは、ある男性が深夜に己斐峠を車で越えたときの話だ。

その日は仕事が長引き、帰宅したのは午前一時を過ぎていた。

少しでも早く帰りたかった男性は、普段なら避けている山道を通ることにした。

「こんな時間なら、誰もいないだろう」

そう思いながら車を走らせていると、カーブの先に人影が見えた。

女性だった。

道路脇に立ち、こちらに背を向けている。

白っぽい服を着て、じっと山の方を見ていた。

男性は驚いた。

こんな時間に、こんな場所を一人で歩いている。

それでも、そのまま通り過ぎようとした。

すると――

女性が突然、道路の中央へ歩き出した。

男性は慌ててブレーキを踏んだ。

キィィィッ――!

車が止まる。

だが、目の前には誰もいない。

「……え?」

確かに、さっきまで女性がいた。

ところが、道路の先にも、脇の林にも姿がない。

男性は怖くなり、すぐに車を発進させた。

その直後だった。

後部座席から、

「コン……」

小さな音がした。

誰かが窓を叩いたような音だった。

男性はバックミラーを見た。

何もいない。

「気のせいだ……」

そう呟き、アクセルを踏み込む。

すると今度は、

「コン……コン……」

音が二回。

しかも、今度はすぐ後ろから聞こえた。

男性は恐る恐るバックミラーを見た。

そこには――

さっきの女が座っていた。

白い服。

長い髪。

顔は俯いていて見えない。

男性の全身から汗が噴き出した。

「いつ乗った……?」

声が震える。

女性は答えない。

ただ、俯いたまま動かない。

男性は車を止めることもできず、そのまま峠を下った。

そして、街の明かりが見え始めたところで、もう一度バックミラーを見た。

女性はいなかった。

ほっとした男性は、大きく息を吐いた。

その瞬間。

耳元で、女の声がした。

「……降ろして」

男性は悲鳴を上げた。

慌てて車を路肩に停め、後部座席を振り返る。

やはり、誰もいない。

しかし――

後部座席のシートには、濡れた手形がいくつも残っていた。

まるで、誰かがそこに座り、窓を叩きながら必死に助けを求めていたような手形だった。

それ以来、男性は夜の己斐峠を通らなくなったという。

そして、後になって知人からこんな話を聞いた。

己斐峠では昔から、夜道で女性を見かけても、絶対に車を止めてはいけない。

もし女性を乗せてしまったら――

目的地まで連れて行くのではなく、

「元いた場所まで戻ってほしい」

と頼まれることがあるという。

その場所へ戻ると、女性は消える。

だが、車内には必ず何かが残されている。

濡れた手形。

長い髪。

そして時には――

助手席に、誰かが座っていたような人の体温まで残っているという。

深夜の己斐峠。

もし暗い山道の先に、白い服の女性が立っていたとしても、

決して近づいてはいけない。

そして、もし――

後部座席から、

「コン……コン……」

と窓を叩く音が聞こえても、

振り返ってはいけない。

その音が聞こえている時点で、

もうあなたの車には――

「誰か」が乗っているのかもしれない。

コメント