佐賀市の旧ラ○ンビル――存在しない6階
佐賀市内のある場所に、長いあいだ使われていない古いビルがあった。
かつては多くのテナントが入っていたらしいが、いつの頃からか人の出入りがなくなり、夜になると建物全体が真っ暗になる。
地元では、そのビルを「旧ラ○ンビル」と呼ぶ人もいた。
ある夜、知人と二人でその近くを通った。
時刻は午前一時を少し回った頃だった。
車の窓を開けて走っていると、ビルの前で知人が突然、
「今、誰か乗った?」
と言った。
意味が分からず、建物を見る。
もちろん入口には誰もいない。
「何が?」
そう聞くと、知人はビルの上の方を指差した。
そこには、暗闇の中で一つだけ光っている窓があった。
「さっき、あそこに人が立ってた」
私は笑って、
「廃ビルに人がいるわけないだろ」
と言った。
そのまま車を走らせた。
ところが、数十メートル進んだところで、車内の空気が急に重くなった。
そして――
「チーン」
小さな電子音が聞こえた。
車の中には、そんな音を出すものはない。
二人とも黙った。
すると今度は、
「チーン」
また聞こえた。
知人が小声で言った。
「エレベーターの音じゃない?」
私は背筋が冷たくなった。
あのビルには、確かに古いエレベーターがあった。
しかし、電源が入っているはずがない。
それでも音は続いた。
「チーン……」
「チーン……」
まるで誰かが、階を一つずつ降りてきているようだった。
その瞬間、後部座席から、
「……すみません」
という声がした。
二人とも凍りついた。
後ろには誰も乗せていない。
知人がゆっくり振り返った。
そして、
「いる」
と呟いた。
私はバックミラーを見た。
最初は何も見えなかった。
だが、信号待ちで車が止まった瞬間、ミラーの端に何かが映った。
後部座席の中央。
そこに、人が座っていた。
顔は見えない。
ただ、両手だけが膝の上に置かれている。
私はアクセルを踏み込んだ。
信号が変わったことにも気づかず、車を走らせた。
しばらくして知人が、
「もう大丈夫だろ」
と言った。
私もそう思った。
ところが、自宅に着いて車を降りようとした時だった。
後部座席の足元に、見覚えのない古い鍵が落ちていた。
銀色の小さな鍵。
そこには手書きで、
「6F」
と書かれていた。
翌日、気になってそのビルのことを調べた。
古い資料を見つけ、建物には確かにエレベーターがあったことが分かった。
そして、ある記録に目が止まった。
そのビルは昔、六階部分で工事が中断された時期があり、その後、長いあいだ立ち入りが制限されていたという。
さらに奇妙だったのは――
現在の建物には、六階が存在しないことだった。
五階建てだった。
それを知った瞬間、あの夜のことを思い出した。
「チーン」
あの音は、一体どこから聞こえていたのか。
そして、車の中に落ちていた「6F」の鍵は――
誰が持っていたのか。
今でも分からない。
ただ、あのビルの前を夜中に通るときだけは、絶対に窓を開けない。
もし後ろから、
「すみません」
と聞こえても――
決して振り返ってはいけない。
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