能古島――夜のフェリーに乗っていた女
福岡市の姪浜から船で渡ることのできる能古島。
昼間は海と緑に囲まれた穏やかな島だが、夜になると人通りも少なくなり、街灯のない道では海と山の境目さえ分からなくなる。
これは、ある男性が能古島で体験したという話だ。
数年前の夏、私は友人二人と能古島へ遊びに行った。
昼間は海で遊び、夕方には島を散策した。
気がつけば、帰りのフェリーの時間が迫っていた。
「急がないと船なくなるぞ」
友人に言われ、私たちは港へ向かって歩き始めた。
ところが、途中で一人の友人がスマートフォンを落とした。
「先に行ってて。すぐ追いつくから」
そう言われ、私はもう一人の友人と先に港へ向かった。
その途中だった。
背後から、
「……待って」
と、女の声がした。
振り返ると、少し離れた道路脇に女が立っていた。
白っぽい服を着ていて、こちらをじっと見ている。
「観光客かな?」
そう思ったが、なぜか違和感があった。
女は、夜の島に一人で立っているのに、荷物も持っていない。
しかも、こちらへ近づいてくるわけでもない。
ただ、ずっと立っている。
私たちは気にせず歩き続けた。
すると、また背後から、
「待って……」
今度は、さっきより近かった。
怖くなって振り返る。
しかし、誰もいない。
「今、聞こえたよな?」
友人に聞くと、
「……聞こえた」
二人とも黙ったまま、歩く速度を上げた。
しばらくすると、港の明かりが見えてきた。
その瞬間、スマートフォンが鳴った。
落とした友人からだった。
「どこにいる?」
そう聞くと、
「まだ港。お前らこそどこにいるんだ?」
私は一瞬、意味が分からなかった。
「今、港に向かってるけど……」
すると友人は、
「いや、俺はもう港に着いてるぞ」
と言った。
時計を見ると、フェリーの出航まであと数分しかない。
私たちは急いで港へ走った。
そして、ようやく友人と合流した。
「お前ら、途中で女の人と一緒に歩いてなかった?」
友人が突然そう言った。
私は背筋が凍った。
「……なんで?」
「さっき遠くから見えたんだよ。お前らの後ろに、女の人が歩いてた」
「どこで?」
「港に来る途中」
私は何も言えなかった。
そして三人でフェリーに乗り込んだ。
船が島を離れ始める。
能古島の明かりが、少しずつ遠ざかっていく。
そのときだった。
友人が海を見ながら、
「……あれ、誰?」
と呟いた。
船の後方。
暗い海岸に、誰かが立っていた。
白い服の女だった。
街灯もない場所なのに、その姿だけが妙にはっきり見える。
女は動かなかった。
ただ、こちらを見ていた。
そして船がさらに離れた瞬間――
女の姿が、突然消えた。
「……見間違いだろ」
誰もそう言い切れなかった。
帰宅してから、落とした友人のスマートフォンを確認した。
すると、奇妙な写真が一枚だけ残っていた。
どうやら友人は、スマートフォンを落とす直前に写真を撮っていたらしい。
写真には、夜の能古島の道路が写っていた。
そして写真の端。
暗い道路脇に、白い服を着た女が立っていた。
ところが、私たちが撮った覚えはなかった。
さらに恐ろしかったのは、その女が立っていた場所だった。
写真を撮った時間は、私たちがその場所を通る数分前。
つまり――
私たちが女の声を聞くより前から、
その女は、私たちを待っていたことになる。
それ以来、友人たちは夜の能古島には行かなくなった。
そして今でも、あの写真を見ることだけは、誰もできないという。
コメント
コメントを投稿