高松いろは市場跡――消えない焦げ臭さ

深夜の高松市。

人通りが途絶えたトキワ街を、一人の男が歩いていた。

仕事帰りだった。

時計を見ると、午前一時を少し過ぎている。

男は近道をするため、かつて高松いろは市場があった場所の前を通った。

昼間なら、何の変哲もない街の一角だった。

しかし、夜になると妙に静かだった。

男が市場跡の前を通り過ぎようとした、そのとき――

「……焦げ臭い」

突然、鼻を刺すような匂いがした。

何かが燃えている。

そう思って辺りを見回した。

だが、火はどこにもない。

煙もない。

男は気のせいだと思い、そのまま歩き始めた。

ところが――

「……熱い」

今度は首筋に、はっきりと熱を感じた。

まるで誰かが、すぐ後ろから息を吹きかけているようだった。

男は振り返った。

誰もいない。

それでも、なぜか足音が聞こえた。

ペタ……

ペタ……

濡れた靴で歩くような音。

男が歩けば、後ろからも歩く。

男が止まれば――

足音も止まる。

「……誰?」

恐る恐る振り返る。

やはり誰もいない。

その瞬間だった。

市場跡の奥から、

「助けて……」

という声が聞こえた。

男は凍りついた。

女性の声だった。

だが、その声には普通ではない違和感があった。

まるで、遠い昔の場所から聞こえてくるような声だった。

「助けて……」

もう一度。

今度は、はっきり聞こえた。

男が声のした方向を見る。

すると、暗闇の中に――

人影が立っていた。

全身が黒く見える。

顔も見えない。

ただ、その人物の周囲だけ、空気が揺らいでいる。

男は一歩後ずさった。

その瞬間、人影が顔を上げた。

そして――

「熱い……」

小さな声で呟いた。

男の背中に冷たい汗が流れた。

次の瞬間。

周囲から一斉に、

「熱い」

「苦しい」

「助けて」

という声が聞こえ始めた。

一人ではない。

二人でもない。

何人もの声だった。

男は夢中でその場から逃げ出した。

振り返ることはできなかった。

ただ背後から、

ペタ……

ペタ……

ペタ……

と、濡れた足音が追いかけてくる。

そして市場跡から離れ、明るい通りに出た瞬間――

すべての音が消えた。

男は荒い息をしながら、ゆっくり振り返った。

そこには誰もいなかった。

ただ――

鼻の奥に、あの焦げ臭さだけが残っていた。

その後、男は二度と市場跡の前を通らなくなった。

そして数日後。

スマートフォンに残っていた、あの日の写真を整理していると、一枚だけ見覚えのない写真があった。

暗闇の中で撮影された、ぼやけた一枚。

市場跡を写した写真だった。

男は撮った記憶がない。

拡大してみる。

すると、写真の端に――

黒い人影が立っていた。

その顔だけが、異様にはっきり写っていた。

そして画面を見つめていた男は気づいた。

その人物は――

写真の中でこちらを見ているのではない。

男の背後を見ていた。

その瞬間。

部屋の中に、

ふわっ……

と、あの焦げ臭い匂いが漂った。

男は振り返らなかった。

振り返ってはいけない。

なぜなら――

耳元で、あの声が聞こえたからだ。

「……まだ熱いよ」

それ以来、男の部屋では、夜になると時々――

誰もいないはずの場所から、

ペタ……

ペタ……

という濡れた足音が聞こえるという。

そして足音が止まったとき。

決まって部屋の中には、

焦げた匂いが漂う。

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