西宮夙川処刑場跡――夜の川辺に立つ男
その場所のことを知ったのは、地元に住む知人から聞いた何気ない一言がきっかけだった。
「夙川のあの辺り、夜は一人で歩かないほうがいいですよ」
理由を聞いても、知人は少し困ったような顔をするだけだった。
昔から、あの周辺には墓や無縁仏にまつわる話が残っている。
それだけなら、珍しい話ではない。
だが、知人が最後にこう付け加えた。
「夜になると、川沿いで男の人を見たって話があるんです。ただ……その人、近づいても顔が見えないらしいですよ」
それが妙に気になった。
数日後の夜、私は一人で夙川沿いを歩いていた。
時刻は午前零時を少し回った頃。
昼間なら人通りもある場所なのに、夜になると辺りは驚くほど静かだった。
聞こえるのは、遠くを走る車の音と、川の水が流れる音だけ。
私は古い墓石や地蔵が残る辺りまで来ると、足を止めた。
その瞬間だった。
――カツン。
背後から、小さな石を踏む音がした。
振り返る。
誰もいない。
気のせいだと思い、再び歩き始める。
すると、
――カツン。
また聞こえた。
今度は、明らかに近い。
私はゆっくり振り返った。
街灯の下に、一人の男が立っていた。
黒っぽい服を着ている。
こちらを向いているはずなのに、顔だけが妙に暗い。
「……誰ですか?」
声をかけても返事はない。
男はその場から動かなかった。
ただ、じっとこちらを見ている。
その時、不意に川の水音が大きくなった。
ザーッ……。
風が吹いたわけでもない。
それなのに、川面が激しく揺れている。
私は怖くなり、男から目を逸らして歩き出した。
ところが数歩進んだところで、背後から声がした。
「……まだ帰らないのか」
低い男の声だった。
私は反射的に振り返った。
男はいない。
代わりに、先ほどまで男が立っていた場所に、濡れた足跡が残っていた。
一つ。
二つ。
三つ。
足跡は私のいる方向へ続いている。
しかし、その足跡は途中で途切れていた。
まるで、そこから先は歩いていないように。
私は怖くなり、その場を離れた。
そして翌日。
昨夜のことを知人に話すと、彼は黙り込んだ。
しばらくしてから、こう言った。
「その男……川のほうから来ませんでした?」
私は答えられなかった。
確かに、男が現れた場所は川沿いだった。
すると知人は、さらに声を落とした。
「昔から、あそこでは夜に人影を見たって話があるんです。でもね……」
「でも?」
「見た人の話を聞くと、みんな同じことを言うんですよ」
知人は私の顔を見つめた。
「その人影、最初は自分の後ろにいるんです」
私は背筋が凍った。
「でも、振り返った時には……」
知人はそこで言葉を止めた。
「もう、すぐ横にいるんです」
それ以来、私は夜の夙川には近づいていない。
ただ、一度だけ。
深夜、自宅で撮った写真を整理していた時のことだった。
あの夜、何気なく撮影していた川沿いの写真が一枚だけ残っていた。
写真の奥。
街灯の下に、黒い服を着た男が立っている。
顔は見えない。
そして、その男の足元には――
川から続く、濡れた足跡が写っていた。
こちらへ向かって、まっすぐに。
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