一軒茶屋――山頂へ続くもう一つの道
夜の六甲山を歩くのは、昼間とはまったく違う。
これは、数年前の秋に一軒茶屋周辺を訪れた男性から聞いた話だ。
その男性は、仕事が終わったあと車で六甲山を上り、夜の山頂付近まで来ていた。
時計を見ると、午後11時を少し過ぎていた。
「せっかくだから、一軒茶屋のあたりを少し歩いてみよう」
そう思った男性は、車を停め、懐中電灯を持って歩き始めた。
昼間なら登山者の姿も多い場所だ。
しかし、その時間になると人の気配はまったくない。
風が木々を揺らす音。
遠くで聞こえる車の音。
それ以外は、何も聞こえなかった。
しばらく歩いていると、男性は道の先に小さな明かりを見つけた。
黄色っぽい、古い電灯のような光だった。
「こんなところに明かりがあったかな……」
不思議に思いながら近づいていく。
すると、明かりの下に一人の人影が立っていた。
年配の男性だった。
古い登山服を着て、山頂方向をじっと見つめている。
男性が声をかけると、その人影はゆっくり振り返った。
「すみません。山頂へ行く道って、こっちで合ってますか?」
すると老人は、無言で道の先を指差した。
「ありがとうございます」
男性は頭を下げ、その方向へ歩き始めた。
ところが、数十メートル進んだところで違和感に気づいた。
道がない。
そこには、ただ木々が生い茂っているだけだった。
「あれ……?」
男性は振り返った。
すると、さっきまで立っていたはずの老人も、明かりも消えていた。
完全な暗闇だった。
怖くなった男性は、急いで来た道を戻った。
すると今度は、背後から足音が聞こえ始めた。
ザッ……。
ザッ……。
自分の足音とは明らかに違う。
一歩遅れて、誰かがついてくる。
男性が立ち止まる。
足音も止まった。
また歩く。
ザッ……。
ザッ……。
やはり、ついてくる。
男性は振り返らなかった。
そのまま早足で歩き続けた。
すると突然、背後から低い声が聞こえた。
「……そっちは違う」
男性の足が止まった。
振り返ることができなかった。
声の主は続けた。
「……山頂へ行くなら、こっちだ」
男性は恐る恐る横を見る。
すると、暗闇の中に一本の細い道が浮かんでいた。
その道の先には、ぼんやりと黄色い明かりが見える。
さっきの老人が立っていた場所だった。
男性は直感的に思った。
――行ってはいけない。
そして、そのまま走って車へ戻った。
車に乗り込み、エンジンをかける。
バックミラーを見る。
誰もいない。
「気のせいだったんだ……」
そう思って山を下りようとした。
ところが、車を発進させた瞬間。
助手席から、
コン……。
小さな音がした。
男性が恐る恐る見る。
助手席には誰もいない。
しかし、シートの上には泥で濡れた一本の古い杖が置かれていた。
男性はそのまま車を走らせ、二度と夜の六甲山へ行くことはなかったという。
後日、昼間に一軒茶屋周辺を訪れた男性は、近くにいた登山者にその話をした。
すると、その登山者は少し黙ったあと、こう言った。
「夜の山では、知らない道について行かないほうがいいですよ」
「どうしてですか?」
登山者は山頂方向を見ながら答えた。
「昔から、この辺りには山道がいくつもありましたから」
そして、最後にこう付け加えた。
「……でも、夜にだけ現れる道があるって話もありますけどね」
男性は、その言葉を聞いて背筋が凍った。
あの夜、自分が見た道は――
本当に存在していた道だったのだろうか。
それとも、山の中に残された誰かが、
今も登山者を待っているのだろうか。
コメント
コメントを投稿