ホテル甚五郎――誰もいないはずの部屋

夜の十一時を過ぎたころだった。

友人と二人で、山あいにある古いホテル甚五郎へ向かった。

周囲には民家もほとんどなく、街灯も少ない。

車のライトが照らす先に、古びた建物が浮かび上がった。

窓は暗く、入口も閉ざされている。

「本当にここなのか?」

友人がそう呟いた。

そのときだった。

ホテルの二階にある窓の一つに、人影が見えた。

真っ黒な窓の向こうに、誰かが立っている。

こちらを見ているようだった。

「……今、人いたよな?」

二人で顔を見合わせた。

しかし、次の瞬間。

二階の窓から人影が消えた。

ホテルの中に誰かがいる。

そう思った俺たちは、建物の周囲を少し歩いてみることにした。

すると、裏手に回ったところで、

「コン……」

乾いた音が聞こえた。

まるで、古いドアを内側から叩いたような音だった。

「コン……コン……」

音は少しずつ近づいてくる。

だが、そこには誰もいない。

怖くなり、車へ戻ろうとした、その瞬間だった。

背後から、

「待って……」

女の声が聞こえた。

振り返った。

誰もいない。

友人を見ると、顔が真っ青になっていた。

「今、聞こえた?」

「ああ……」

二人とも同じ声を聞いていた。

その場から逃げるように車へ戻った。

エンジンをかけようとしたが、なぜかかからない。

何度キーを回しても、セルが回らない。

そのとき――

車の後部座席から、

「コン……」

と音がした。

二人とも凍りついた。

後部座席には、誰も乗っていない。

それなのに、

「コン……コン……」

今度は窓を内側から叩いている。

友人が震える手でルームミラーを見た。

そして、小さく息を呑んだ。

「……後ろにいる」

「何が?」

友人は答えなかった。

ただ、ミラーを見つめたまま震えている。

俺も恐る恐る振り返った。

後部座席には、誰もいない。

ところが――

窓ガラスに、内側からつけられたような手形があった。

一つ。

二つ。

そして、三つ。

その瞬間、エンジンが突然かかった。

俺はアクセルを踏み込み、ホテルから一気に離れた。

翌日。

気になってホテルについて調べてみた。

すると、昔そのホテルを訪れた人の間で、

「誰もいない部屋から物音がする」

「夜になると窓に人影が立っている」

そんな噂が残っていることを知った。

そして最後に、ひとつだけ気になる話を見つけた。

ホテルの二階には、現在は使われていない部屋がある。

その部屋の窓を、夜に外から見てはいけない。

なぜなら――

誰もいないはずの部屋から、こちらを見ている人がいるからだ。

あの夜、俺たちが見た二階の人影。

そして車内に残された手形。

あれが誰だったのか。

今でも分からない。

ただ一つだけ確かなことがある。

あのホテルを離れる直前、

二階の窓から見えた人影は――

俺たちが車を出したあとも、ずっとこちらを見ていた。

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