神田トンネル――炎の向こうに立つ老人
深夜、友人と二人で車を走らせていた。
目的地は特になかった。
ただ、夜の高知を走っているうちに、神田トンネルを通ってみようという話になった。
トンネルの手前まで来ると、周囲の明かりが急に少なくなった。
道路脇の木々がライトに照らされるたび、黒い影が車の横を流れていく。
「なんか……ここ、嫌な感じしない?」
友人がそう言った。
自分も同じことを感じていた。
けれど、わざわざ引き返すほどではない。
そのままトンネルへ入った。
入口をくぐった瞬間だった。
車内の温度が、急に下がった。
エアコンをつけているわけでもないのに、首筋に冷たい風が当たる。
そして、トンネルの中ほどまで進んだところで、友人が前を指差した。
「……あれ、何?」
前方の暗闇に、人影が見えた。
二人だった。
道路の端に、老人と老婆が立っている。
二人ともこちらを向いていた。
ライトに照らされても、顔だけが妙に暗くて見えない。
車を近づける。
すると老人が、ゆっくりとこちらへ歩き始めた。
老婆も、その後ろをついてくる。
「こんな時間に……?」
友人が呟いた。
次の瞬間、老人が両手で何かを抱えていることに気づいた。
白っぽいポリタンクだった。
その瞬間、車内に灯油のような強烈な臭いが広がった。
「窓、閉めろ!」
慌てて窓を閉めた。
だが、臭いは消えなかった。
むしろ車内の中で濃くなっていく。
そして、老人とすれ違う直前。
老婆がこちらを見た。
顔が見えた。
その顔には、表情がなかった。
ただ、口だけがゆっくり動いていた。
声は聞こえない。
それでも、何と言っているのか分かった。
――逃げて。
車を急加速させた。
バックミラーを見る。
老人と老婆は、もういなかった。
代わりに、トンネルの奥に小さな炎が見えた。
最初は誰かが焚き火でもしているのかと思った。
だが炎は少しずつ大きくなり、トンネルの壁を赤く染めていく。
友人が震えた声で言った。
「……戻ってきてる」
「何が?」
「後ろから……何か来てる」
ミラーを見た。
そこには、炎の中を歩いてくる老人の姿があった。
服には火がついている。
それなのに、老人はまったく燃えていない。
ただ、こちらに向かって歩いてくる。
一歩。
また一歩。
そして突然、老人が車の後ろに手を伸ばした。
ドンッ――。
車体が大きく揺れた。
友人が悲鳴を上げた。
アクセルを踏み込み、ようやくトンネルを抜けた。
外へ出た瞬間、あの灯油の臭いが消えた。
車を停め、二人で何度も後ろを確認した。
誰もいない。
その夜は、そのまま帰った。
ところが翌朝。
車を確認すると、後部座席の窓に奇妙な跡が残っていた。
内側から、指でなぞったような黒い線。
そして、その横に小さな文字が浮かんでいた。
「まだ、燃えている」
友人と二人で凍りついた。
慌てて窓を拭いた。
すると文字は跡形もなく消えた。
ただ一つだけ。
後部座席の床には、見覚えのない白いポリタンクが置かれていた。
蓋を開ける勇気は、二人ともなかった。
その後、車は手放した。
そして二人とも、神田トンネルには二度と近づいていない。
ただ、友人だけは今でも時々こう言う。
「トンネルを出る直前……」
「あの老人、車の後ろじゃなくて――」
「運転席の真横に立ってたんだよ」
あの夜。
自分たちが見ていたものが、本当にトンネルの中にいたのか。
それとも、車の中に入ってきていたのか。
今となっては、確かめる方法はない。
コメント
コメントを投稿