吉良神社――境内の奥から聞こえる声

その神社には、夜になると絶対に一人で近づいてはいけない。

地元では昔から、そんな話があった。

特に奇妙なのは、境内の奥にある古い木立だった。

昼間に見れば、ただの静かな林にしか見えない。

しかし、日が落ちてからそこへ入ると、誰もいないはずの場所から、人の声が聞こえるという。

「……こっち」

そんな声だ。

ある夏の夜、友人と二人で吉良神社を訪れた。

時刻は午後十一時を過ぎていた。

境内には誰もいない。

街灯の明かりも入口付近までしか届かず、奥へ進むほど周囲は暗くなっていった。

「本当に何もないな」

友人が笑いながら言った。

そのときだった。

林の奥から、

「……こっち」

と、かすかな声が聞こえた。

二人とも同時に黙った。

「今、聞こえた?」

友人が小声で尋ねる。

聞き間違いではなかった。

確かに、人の声だった。

しかも、かなり近い。

「誰かいるのか?」

友人が声をかけた。

返事はない。

ただ、木々の間から、

カサ……。

カサ……。

と、何かを踏む音が聞こえた。

誰かがこちらへ歩いているようだった。

しかし、姿は見えない。

「帰ろう」

そう言って踵を返した瞬間、

「……待って」

今度は、はっきり聞こえた。

しかも耳元だった。

思わず振り返った。

当然、誰もいない。

だが友人は、私の後ろではなく、境内の奥を見つめたまま固まっていた。

「どうした?」

声をかけても返事がない。

友人の視線の先には、一本の古い木があった。

そして、その木の陰から――

誰かがこちらを覗いていた。

顔は見えない。

ただ、暗闇の中からこちらを見ていることだけは分かった。

「走るぞ!」

二人で一気に鳥居まで走った。

その途中、背後から何度も声がした。

「待って」

「こっち」

「戻ってきて」

それでも振り返らなかった。

ようやく車まで戻り、ドアを閉めた。

友人が荒い息をしながら、

「……あれ、見た?」

と聞いた。

「ああ」

そう答えると、友人は首を横に振った。

「違う。俺が見たのは、木の後ろじゃない」

「じゃあ、何を見たんだ?」

友人はしばらく黙っていた。

そして震える声で言った。

「俺たちが逃げるとき、鳥居のところに誰か立ってた」

「……誰が?」

「さっきの声を聞いたときから、ずっと」

その言葉を聞いて、車の中が急に冷たくなった。

私は慌ててエンジンをかけた。

その瞬間、

コン。

と、後部座席の窓が叩かれた。

二人とも息を止めた。

もう一度、

コン。

コン。

今度は三回。

だが、後部座席には誰もいない。

怖くて確認することもできなかった。

そのまま車を走らせ、神社から離れた。

しばらくして友人が、

「……もう大丈夫だろ」

と呟いた。

私もそう思った。

しかし、翌朝。

友人から一枚の写真が送られてきた。

昨夜、神社で撮った写真だった。

何気なく撮影した境内の写真。

そこには、私たち以外誰も写っていない。

……はずだった。

写真を拡大すると、境内の奥。

木の陰に、白っぽい人影が立っていた。

そして、その人影の顔のあたりをさらに拡大したとき――

二人とも言葉を失った。

顔はこちらを向いていた。

そして、口元だけが妙に大きく開いていた。

まるで、

「こっち」

と、もう一度呼びかけているように。

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