見返り橋――振り返ってはいけない
高知県の山あいにある見返り橋には、昔から妙な噂があった。
夜、この橋を車で渡るとき、何かを感じても決して振り返ってはいけない。
それが人の気配であっても、声であっても――。
振り返った者は、「橋を渡り終えてからも、何かを連れて帰ってしまう」と言われていた。
ある夏の夜、友人と二人で山道を走っていた男性がいた。
時刻は午前一時を過ぎていた。
周囲には街灯もほとんどなく、ヘッドライトが照らす先だけが、暗闇の中に浮かんでいる。
しばらく走ると、前方に橋が見えてきた。
「あれ、見返り橋じゃない?」
友人がそう言った。
男性は何気なく速度を落とした。
橋の上には誰もいない。
少なくとも、最初はそう見えた。
ゆっくり橋を渡り始めた、そのときだった。
後部座席から、
コン……。
小さな音がした。
二人とも黙った。
コン……。
今度は、はっきり聞こえた。
まるで誰かが、車の後ろから窓ガラスを叩いているような音だった。
男性はバックミラーを見ようとした。
しかし友人が低い声で言った。
「見るな」
「え?」
「この橋、振り返ったら駄目って聞いたことある」
男性は慌てて前を向いた。
だが、その直後――
後部座席から、女の声がした。
「……ねえ」
二人の身体が固まった。
車内には、二人しかいない。
「……ねえ」
今度は、すぐ後ろから聞こえた。
男性はアクセルを踏み込んだ。
橋を抜ける。
そして、ようやく山道を少し下ったところで車を停めた。
二人とも無言だった。
「……今の、聞いたよな?」
友人が震えた声で聞いた。
男性が頷く。
その瞬間だった。
車の後ろから、
ドンッ!
と大きな衝撃が響いた。
二人は反射的に振り返りそうになった。
しかし、必死にこらえた。
数秒後。
何事もなかったように静かになった。
男性は恐る恐る車を発進させた。
それから数分ほど走ったところで、友人がスマートフォンを取り出した。
「さっきの音、録音されてないかな」
そう言って、車内で撮っていた動画を確認した。
最初は暗い車内が映っているだけだった。
だが、橋を渡っている場面になった瞬間――。
画面の端に、奇妙なものが映り込んでいた。
後部座席。
そこには、誰も座っていないはずだった。
なのに、座席の中央だけが不自然に沈んでいる。
まるで、そこに誰かが座っているように。
そして動画の音声には、
「……ねえ」
という声のあと、もう一つ別の声が入っていた。
小さく、かすれた声だった。
「振り返って」
二人は顔を見合わせた。
そのとき、車の後ろから、
コン……
と、また音がした。
今度は窓を叩く音ではなかった。
トランクの中からだった。
二人は、そのまま車を走らせた。
家に着くまで、一度も後ろを見なかったという。
しかし翌朝。
車を確認すると、トランクの表面に泥のついた手形がいくつも残っていた。
しかも、その手形は車の外側から付いたものではなかった。
トランクを開けて内側を見ると――
内側にも、同じ手形が残っていた。
それ以来、男性は夜の見返り橋を通らなくなった。
そして、あの夜の動画も二度と見ないようにしているという。
ただ、一度だけ。
友人が動画を確認したことがあるらしい。
橋を渡り終えた直後の映像。
そこには、車の後部座席に座る影が映っていた。
その影は、二人のほうをじっと見つめていた。
そして橋を完全に離れた瞬間――
ゆっくりと顔を上げ、
カメラのほうへ向かって、
笑っていた。
だから見返り橋では、何かを感じても振り返ってはいけない。
橋の上で後ろから声をかけられても。
窓を叩かれても。
名前を呼ばれても。
決して――
振り返ってはいけない。
それが、橋を渡り終えたあとも「何か」に見つめられ続けないための、唯一の方法なのだという。
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