魚切ダム――水面に立つ女

夜の魚切ダムは、昼間とはまるで別の場所だった。

山に囲まれた湖面には風がほとんどなく、水は鏡のように静まり返っている。

ある夏の夜、男は友人と二人で魚切ダムを訪れた。

目的は、ダムの周辺で噂されている「夜になると水面に人影が立つ」という話を確かめるためだった。

午前一時を過ぎたころ。

二人は車を降り、懐中電灯だけを頼りに湖面の見える場所まで歩いていった。

「……本当に何も聞こえないな」

友人が小声で言った。

確かに、異様なほど静かだった。

虫の声も、鳥の声もない。

聞こえるのは、二人の足音だけ。

そのときだった。

――チャプ……。

湖のほうから、水を叩くような音がした。

二人は同時に振り返った。

暗い湖面には、何もない。

「魚かな」

そう言って友人が笑った。

しかし、男は違和感を覚えていた。

今の音は、魚が跳ねた音ではなかった。

まるで誰かが、水の中からゆっくりと手を伸ばしたような音だった。

二人が湖面を見つめていると、今度は少し離れた場所から、

――チャプ……。

また音がした。

そして、その直後。

湖の中央に、黒いものが浮かんでいるのが見えた。

最初は流木だと思った。

だが、よく見ると違った。

それは、人間の頭だった。

長い髪のようなものが水面に広がっている。

「……人?」

友人が呟いた。

男はすぐにスマートフォンを取り出した。

しかし、画面を向けた瞬間。

その人影が、こちらを向いた。

距離はかなりある。

顔など見えるはずがない。

それなのに――

なぜか目だけが、はっきり見えた。

白い顔。

そして、真っ黒な二つの目。

二人は恐怖で動けなくなった。

すると水面に浮かんでいた女が、

ゆっくりと立ち上がった。

ありえない。

湖の中央で、人間が水面に立っている。

腰まで水に浸かった女は、こちらを見たまま動かない。

そして突然、

首を傾げた。

――コキッ。

遠く離れているはずなのに、その音だけが妙にはっきり聞こえた。

「逃げよう」

友人が震える声で言った。

二人は急いで車へ戻った。

だが、車に乗り込んだ瞬間、男はバックミラーを見てしまった。

そこには、誰もいない。

ホッとした、そのとき。

後部座席から、

――ポタ……。

水滴が落ちる音がした。

二人は同時に振り返った。

誰もいない。

しかし、後部座席のシートが濡れていた。

しかも、その濡れ跡は人間が座っていた形をしていた。

「……乗ってきたのか?」

友人が震えながら呟いた。

その瞬間。

車の後ろから、

――コン。

窓を叩く音がした。

二人は振り返れなかった。

――コン。

もう一度。

そして、

――コン、コン、コン。

叩く音が少しずつ速くなる。

男は震える手でエンジンをかけ、アクセルを踏み込んだ。

車が走り出す。

しばらくして、ようやくダムから離れた。

二人は何も話さなかった。

そして翌朝。

男は昨夜撮影した動画を確認した。

そこには、暗い湖面が映っていた。

何もない。

そう思った。

だが、動画の最後。

画面の端に、ほんの一瞬だけ女の顔が映っていた。

しかも――

女は湖の中ではなかった。

二人が逃げる直前。

車のすぐ後ろに立っていた。

濡れた長い髪。

真っ白な顔。

そして、こちらを見つめる黒い目。

さらに恐ろしいことに、その映像には男たちが聞いていなかった声まで入っていた。

小さな女の声で、

「……一人、置いていかないで」

そう呟いていた。

男はその後、二度と魚切ダムへ行かなかった。

ただ、あの夜から車の後部座席だけは、何度掃除しても濡れることがあるという。

雨の日でもないのに。

そして濡れたシートには、いつも決まって――

濡れた長い髪が一本だけ、残っているという。

コメント