六甲山・天狗岩――岩陰から聞こえた声

六甲山の山中にある「天狗岩」。

大きな岩の上からは神戸の街を一望でき、昼間なら景色を楽しむ人も多い場所です。

しかし、夜になると周囲は一変します。

街の明かりが遠くに見えるだけで、山の中は驚くほど暗くなります。

これは、そんな天狗岩を夜に訪れた男性の話です。

ある秋の夜、男性は友人と二人で六甲山へ向かいました。

目的は、天狗岩から夜景を見ること。

車を降り、暗い山道を歩いていると、友人が突然立ち止まりました。

「……今、誰かいたよな?」

男性が前を見ると、少し先の木の陰に、人影のようなものが立っていました。

しかし、ライトを向けると何もありません。

「見間違いじゃない?」

そう言って二人は先へ進みました。

しばらくして、天狗岩に到着。

岩の上から見える神戸の夜景は美しく、二人はしばらく黙って景色を眺めていました。

その時でした。

「……こっち」

背後から、かすかな声が聞こえました。

二人とも振り返ります。

誰もいません。

「今、聞こえた?」

友人が小声で尋ねます。

男性が頷くと、今度は岩の反対側から、

「……こっち」

また同じ声が聞こえました。

まるで、誰かが岩陰から二人を呼んでいるようでした。

友人がライトを向けます。

すると、岩の下に続く暗い斜面が照らされました。

そこには誰もいません。

ところが、その瞬間――

ガサッ。

すぐ後ろの茂みが大きく揺れました。

二人は驚いて振り返りました。

そして男性は、ライトの端に何かを見ました。

木の陰から、白っぽい顔のようなものがこちらを覗いていたのです。

目が合った。

そう思った瞬間、その顔は木の向こうへスッと消えました。

「帰ろう」

友人がそう言った直後、二人は急いで山道を戻り始めました。

しかし、歩き始めてすぐに異変が起きました。

後ろから、

ザッ……ザッ……

と、誰かが歩いてくる音がするのです。

二人が立ち止まると、足音も止まります。

歩き出すと、また聞こえる。

ザッ……ザッ……

振り返っても、誰もいません。

やがて車のところまで戻ると、二人は急いで乗り込みました。

エンジンをかけ、山を下り始めたその時。

友人が突然、後部座席を見ました。

「……誰か乗ってない?」

男性がバックミラーを見ると、後部座席には誰もいません。

しかし――

曇った窓ガラスに、内側から指でなぞったような文字が残っていました。

そこには、

「こっち」

と書かれていたそうです。

もちろん、二人とも後部座席には触れていません。

それ以来、二人は夜の六甲山へ行くことはなくなったといいます。

天狗岩で聞こえた声が何だったのか。

そして、車の窓に残された「こっち」という文字が何を意味していたのか。

今でも二人には分からないそうです。

六甲山は昼間とはまったく違う顔を見せます。

もし夜に訪れることがあっても、人気のない場所へ不用意に近づかないほうがいいのかもしれません。

もしかすると、暗い岩陰から誰かがあなたを呼んでいるかもしれません。

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