妙見谷――呼んではいけない名前

夜の妙見谷には、妙な噂があった。

「谷の奥で、自分の名前を呼ばれても返事をするな」

大学生の私は、その噂を確かめるため、友人二人と夜の谷へ向かった。

車を降りると、周囲は驚くほど静かだった。

風もない。
虫の声すら聞こえない。

懐中電灯を頼りに、三人で細い道を歩いていく。

しばらくすると、後ろから声がした。

「……おい」

振り返った。

友人の一人が立っている。

「今、誰か俺の名前呼ばなかった?」

「呼んでないよ」

そう答えると、もう一人の友人が笑った。

「谷って声が反響するからな」

そのまま歩き続けた。

だが、数分後。

今度は、はっきり聞こえた。

「……○○」

自分の名前だった。

しかも、すぐ耳元で囁かれたような声だった。

私は反射的に振り返ろうとした。

その瞬間、友人が腕を掴んだ。

「見るな」

小さな声だった。

「……今、お前の後ろに誰かいる」

全身の血が冷たくなった。

ゆっくり前を見る。

木々の隙間に、人影が立っていた。

白っぽい服を着た女のように見える。

顔は見えない。

ただ、こちらをじっと見ている。

「戻ろう」

私たちは走って車へ戻った。

しかし、車に乗り込んだ瞬間。

後部座席から、

「……どうして返事しなかったの?」

女の声がした。

三人とも凍りついた。

誰も後ろを見られなかった。

エンジンをかけ、無我夢中で谷を離れた。

翌朝。

友人の一人から、奇妙なことを聞かされた。

「昨日の夜さ……俺たち、三人だったよな?」

「当たり前だろ」

すると友人は、スマートフォンに残っていた写真を見せた。

昨夜、谷へ入る前に撮った写真だった。

そこには私たち三人が写っている。

そして――

私たちの後ろに、もう一人。

白い服の女が立っていた。

顔は真っ黒で、表情は見えない。

だが、その写真を見た瞬間。

私は気づいてしまった。

女の口元だけが、笑っている。

そして写真の下には、撮影時刻とともに、奇妙な音声データが残っていた。

再生すると、

「……○○」

私の名前を呼ぶ声。

その直後、もう一つの声が重なった。

「次は、返事してね」

それ以来、私は夜に自分の名前を呼ばれても、絶対に振り返らない。

あの谷で聞いた声が、本当に谷に残っているのか。

それとも――

私たちの誰かが、あの夜からずっと、別の何かに変わってしまったのか。

今でも分からない。

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