神池――水面に映らない女

埼玉の山あいに、ひっそりと存在する「神池」。

昼間に訪れれば、ただ静かな池にしか見えない。

しかし、この池には昔から妙な噂があった。

「夜、池を覗いてはいけない」

理由を知る者は、ほとんどいない。

ある夏の夜、一人の男が神池を訪れた。

時刻は午前一時を過ぎていた。

懐中電灯を手に池のほとりまで歩いていくと、周囲には虫の声すらなかった。

風もない。

水面は鏡のように静まり返っている。

男は何気なく池を覗き込んだ。

すると――

水面に、自分の顔が映っていた。

だが、すぐに違和感を覚えた。

自分の後ろに、白い服を着た女が立っている。

驚いて振り返る。

誰もいない。

もう一度、水面を見る。

やはり女がいる。

しかも今度は、先ほどより近い。

男は怖くなり、その場を離れようとした。

その瞬間、水面に映る女がゆっくりと顔を上げた。

そして、男ではなく――

池の奥を指差した。

男は反射的にその方向を見る。

何もない。

しかし、背後から小さな声が聞こえた。

「……まだ、帰らないで」

振り返っても誰もいない。

慌てて走り出した男は、車まで戻った。

エンジンをかけ、池から離れようとしたその時だった。

バックミラーに、池の姿が映った。

そこには誰もいないはずなのに、

水面の上に、白い女が立っていた。

そして女は、こちらを見ながらゆっくりと笑っていた。

翌朝、男はもう一度池を訪れた。

昨夜の出来事が本当だったのか確かめるためだった。

池は何事もなかったように静かだった。

だが、岸辺の泥の上には――

濡れた裸足の跡が、池から山道へ向かって続いていた。

その足跡は男の車が停めていた場所まで続き、

そこで突然、途切れていた。

それ以来、男は二度と神池には近づいていない。

そして地元では今でも、こんな言葉が囁かれている。

「神池の水面に、自分以外の誰かが映ったら……絶対に振り返ってはいけない」

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