奈良・地獄谷――後ろを歩くもの
奈良の山中にある地獄谷。
昼間は木々に囲まれた静かな場所だが、日が落ちると雰囲気が一変する。
これは、数年前の秋に地獄谷を訪れた男性が体験した話だ。
その男性は、休日を利用して一人で山歩きをしていた。
予定よりも歩くのに時間がかかり、気がついた頃には、辺りはすっかり薄暗くなっていた。
「もう少し歩けば戻れるだろう」
そう考え、そのまま山道を進んだ。
しかし、しばらくすると妙なことに気づいた。
後ろから、
――ザッ。
落ち葉を踏む音が聞こえた。
振り返る。
誰もいない。
風で木の葉が揺れているだけだった。
気のせいだと思い、再び歩き始める。
すると、
――ザッ。
また同じ音がした。
今度は、さっきより近い。
男性は立ち止まった。
すると、後ろの気配も消えた。
「……誰かいるんですか?」
声をかけても返事はない。
不気味になり、男性は歩く速度を上げた。
すると後ろから聞こえる足音も、同じように速くなった。
――ザッ、ザッ、ザッ。
まるで、誰かが一定の距離を保ちながら追いかけてくるようだった。
男性は怖くなり、とうとう走り始めた。
その瞬間だった。
背後から、
「待って……」
小さな声が聞こえた。
男性は反射的に振り返った。
そこには誰もいない。
ただ、暗くなった山道が続いているだけだった。
そして、そのとき。
足元に違和感を覚えた。
自分の影の隣に、もう一つ影があった。
男性のものではない。
細長い人影が、地面に伸びていた。
「……え?」
男性が息を止める。
その影は、ゆっくりと動いた。
まるで、こちらに近づいてくるように。
男性は振り返ることができなかった。
そのまま必死に山道を下り、明かりの見える場所まで走った。
ようやく人家の近くまで戻ったとき、後ろから聞こえていた足音は完全に消えていた。
安心した男性は、そこで初めてスマートフォンを取り出した。
すると、山の中で撮影した写真の中に、一枚だけ妙なものが写っていた。
木々の間。
誰もいないはずの場所に、こちらを向いて立っている人影。
顔は真っ黒で、表情は分からない。
ただ、その人物の足元には――
男性が歩いてきた道とは逆向きに、無数の足跡が続いていた。
それ以来、男性は山道を一人で歩くことをやめたという。
そして今でも、地獄谷を訪れた人の中には、
「誰もいないのに、後ろから足音がついてくる」
という話をする人がいる。
もし夕暮れの地獄谷で、後ろから
――ザッ。
と落ち葉を踏む音が聞こえても。
決して、振り返らないほうがいい。
そこにいるものが、本当に人間なのか。
それを確かめる必要はないのだから。
コメント
コメントを投稿