六甲山ホテル跡――「最後の宿泊客」
六甲山の夜は、街の夜とは違う。
標高の高い山道を上っていくにつれ、神戸の街明かりは次第に遠ざかり、やがて霧の向こうへ消えていく。
その夜、私は一人で六甲山を訪れていた。
目的は、かつて多くの宿泊客で賑わった旧六甲山ホテル。
1929年に開業したこのホテルは、長い年月の間、多くの人々を迎えてきた。
だが、古い建物は時代の流れには逆らえない。
閉鎖された旧館には、かつての宿泊客たちの記憶だけが残されている。
――そう聞いたのが、そもそもの始まりだった。
夜11時。
ホテル跡の近くまで来たとき、突然、車のラジオが途切れた。
ザー……。
ノイズだけが車内に響く。
そして、そのノイズの奥から、
「……お客様……」
と、女性の声が聞こえた。
私は思わずラジオを切った。
車内が静かになる。
「今の……何だ?」
そう呟いた瞬間だった。
コンコン。
窓を叩く音。
しかし、外には誰もいない。
もう一度。
コンコン。
今度は後部座席の窓だった。
振り返る。
誰もいない。
ただ、霧だけが濃くなっていた。
私は怖くなり、その場を離れようとした。
ところが、エンジンがかからない。
何度キーを回しても、
カチッ……カチッ……
という音がするだけ。
そのとき、霧の向こうに建物の影が浮かび上がった。
ホテルだった。
「……あれ?」
私は目を疑った。
先ほどまで暗闇だった場所に、ホテルの窓がいくつも見える。
そして、その窓の一つだけに明かりが灯っていた。
黄色い、古い電球のような光。
その窓の前に――
人影が立っていた。
白い服を着た女性だった。
こちらを見ている。
私は車を降りてはいけない。
そう思った。
だが、女性はゆっくり手を上げた。
そして、
「こちらです」
と、口を動かした。
気がつくと、私はホテルの入口に立っていた。
どうやってここまで来たのか、まったく覚えていない。
扉を開ける。
ギィィィ……。
中は真っ暗だった。
しかし、廊下の奥から、
カツ……カツ……カツ……
と、誰かの足音が聞こえてくる。
足音は私の前を通り過ぎ、
階段を上っていった。
私はなぜか、その後を追ってしまった。
二階。
そこには古い客室が並んでいた。
そして一番奥の部屋だけ、扉が少し開いている。
部屋番号は――
「17」
だった。
中に入る。
部屋には古いベッドが一つ。
窓際には小さなテーブル。
その上に、一冊の宿泊者名簿が置かれていた。
私は何気なくページをめくった。
そこには、何十年も前の日付と宿泊客の名前が並んでいた。
そして最後のページ。
そこだけ、なぜか真新しい。
日付は――
今日。
宿泊者名には、
「私の名前」
が書かれていた。
「……なんで?」
その瞬間。
背後で扉が閉まった。
バタン。
そして耳元で、
「お帰りなさいませ」
女性の声。
振り返る。
誰もいない。
ただ、ベッドの上に白いシーツがかかっていた。
そのシーツが、
ゆっくりと盛り上がった。
まるで、
誰かが中に入っているように。
私は必死に扉を開けようとした。
だが、開かない。
そのとき、廊下から大量の足音が聞こえてきた。
カツ……カツ……カツ……
一人ではない。
何人もいる。
そして扉の向こうから、
「次のお客様は?」
「まだです」
「では、待ちましょう」
そんな会話が聞こえた。
私は息を殺した。
すると突然、部屋の電気が点いた。
鏡が目に入る。
そこには私が映っていた。
――いや。
違った。
私の後ろに、
大勢の宿泊客が立っていた。
男性。
女性。
子供。
誰もが古い時代の服装をしている。
そして全員が、
私を見て笑っていた。
次の瞬間。
私は車の中で目を覚ました。
朝だった。
エンジンは普通にかかる。
昨夜のことは夢だったのだろう。
そう思いながら帰宅した。
だが、家に着いてからポケットの中に妙なものが入っていることに気づいた。
古い紙切れだった。
そこには、
「六甲山ホテル 宿泊証」
と書かれていた。
そして、その下には――
宿泊日 2026年9月3日
部屋番号 17
さらに、一番下に小さな文字で、
「チェックアウト予定日 未定」
と書かれていた。
私は慌てて紙を捨てた。
だが、その夜。
午前2時17分。
自宅の玄関から、
コンコン。
コンコン。
と、誰かがドアを叩く音がした。
そして、インターホン越しに女性の声が聞こえた。
「お客様……」
少し間を置いて、
「お部屋の準備ができました」
――今でも、六甲山の霧が濃い夜には、
あのホテルのどこかで、
「次のお客様」を待つ声が聞こえるという。
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