弁天橋――橋の真ん中に立つ女
夜の弁天橋は、昼間とはまるで違う場所に見える。
街灯が水面を照らしているものの、橋の中央付近だけは妙に暗く、川の流れる音がやけに大きく聞こえる。
ある夏の夜、一人の男性が仕事帰りに弁天橋を歩いていた。
時刻は午前一時を少し過ぎた頃。
橋の中ほどまで来たところで、男性は前方に人影があることに気づいた。
橋の中央に、女性が一人立っていた。
白っぽい服を着て、川のほうを向いている。
「こんな時間に……?」
男性はそう思いながら、女性の横を通り過ぎようとした。
その瞬間だった。
女性が、ゆっくりと振り返った。
顔は見えなかった。
長い髪が前に垂れ下がり、顔をすっぽり隠していた。
男性は少し怖くなり、足早にその場を離れた。
ところが、橋を渡り終えてからふと振り返ると――
女性がいない。
「いつの間に……」
橋の上には誰もいなかった。
男性は気味が悪くなり、そのまま帰宅した。
しかし、その夜。
ベッドに入ってしばらくすると、玄関のほうから小さな音が聞こえた。
――コン。
誰かがドアを叩いたような音だった。
こんな時間に誰だろうと思いながら、男性は玄関へ向かった。
そして、ドアスコープを覗いた。
誰もいない。
安心して部屋へ戻ろうとした、その時だった。
今度は玄関ではなく、窓の外から音がした。
――コン。
――コン。
男性の部屋はマンションの上階だった。
窓の外に誰かいるはずがない。
恐る恐るカーテンを開ける。
そこには、何もなかった。
ただ、暗い夜空と遠くの街灯が見えるだけだった。
その瞬間、男性のスマートフォンが鳴った。
知らない番号からの着信だった。
恐る恐る電話に出る。
すると、何も言わずに水の流れるような音だけが聞こえてきた。
そして数秒後。
女の声が、小さく聞こえた。
「……橋の真ん中に……忘れ物……」
男性は慌てて電話を切った。
翌朝。
怖くなった男性は、昨夜のことを忘れるため、何気なく弁天橋の写真を検索した。
そこで一枚の古い写真を見つけた。
橋の上を撮影した、何年も前の写真だった。
男性は何気なく拡大した。
すると――
橋の中央に、白い服を着た女性が立っていた。
昨夜、自分が見た女性と同じだった。
そして写真の隅には、撮影日が記されていた。
それは、男性が弁天橋を訪れた日のちょうど十年前だった。
それ以来、男性は夜の弁天橋を二度と渡らなくなったという。
ただ、地元では今でもこんな話が残っている。
深夜、橋の中央で女性を見かけても、
決して声をかけてはいけない。
もし振り返った女性と目が合ってしまったら――
その人は翌年、同じ場所で「誰か」を待つことになる。
そしてその姿を、次の誰かが目撃する。
まるで橋の上で、人が一人ずつ増えていくように。
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