打越橋の下から
午前二時を過ぎた頃だった。
仕事帰りの男は、いつものように打越橋を渡っていた。
昼間なら車の音や人の気配がある場所も、その時間になると妙に静かだった。
橋の上から下を覗く。
暗闇の中に、わずかな街灯が落ちている。
そのときだった。
「……すみません」
小さな声が聞こえた。
男は足を止めた。
誰もいない。
気のせいだと思い、歩き出そうとした瞬間――
「……すみません」
今度は、はっきり聞こえた。
声は橋の下からだった。
男が恐る恐る下を見る。
すると、橋の下の暗がりに、人影が立っていた。
白っぽい服を着た女だった。
顔は見えない。
ただ、こちらを見上げていることだけは分かった。
男は怖くなり、その場を離れようとした。
しかし――
「待って……」
女の声が響いた。
男は振り返らなかった。
そのまま早足で橋を渡り、家へ帰った。
翌朝。
男が昨夜のことを思い出しながらスマートフォンを見ると、妙なことに気づいた。
昨夜、橋を渡った時間に撮った覚えのない写真が一枚保存されていた。
写真には、暗い橋の下が写っていた。
そして中央に――
女が立っていた。
男は震える手で写真を拡大した。
その瞬間、背筋が凍った。
女には顔がなかった。
いや。
正確には、顔がこちらを向いているのに、そこには何もなかった。
男はすぐに写真を消した。
しかし、その日の夜。
ベッドに入った男のスマートフォンが突然鳴った。
画面には、知らない番号から一件のメッセージ。
そこには一言だけ書かれていた。
「昨日、どうして振り返ってくれなかったの?」
男は慌てて電源を切った。
部屋は静まり返った。
そのとき――
玄関の外から、かすかな声が聞こえた。
「……すみません」
男は息を止めた。
声は、橋の下で聞いたものと同じだった。
そして今度は――
玄関のすぐ向こう側から聞こえていた。
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