田原坂公園――夜の坂道から聞こえる足音
その夜、私は田原坂公園を訪れていた。
昼間なら、桜やツツジが咲く静かな公園だ。
しかし、夜になると雰囲気が一変する。
街灯の少ない遊歩道には、木々の影が伸び、風が吹くたびに葉がざわざわと揺れていた。
田原坂は、かつて西南戦争の激戦地だった。
ここでは多くの兵士が命を落とした。
そんな話を思い出しながら、私は坂道を歩いていた。
そのときだった。
――ザッ……ザッ……。
後ろから、誰かが歩いてくる音がした。
「誰かいるのかな?」
振り返る。
だが、誰もいない。
気のせいだと思い、再び歩き始める。
すると、
――ザッ……ザッ……ザッ……。
今度は、さっきより近い。
私は立ち止まった。
足音も止まった。
少しして、恐る恐る振り返る。
やはり誰もいない。
「……なんだよ」
そう呟いて歩き出した瞬間。
今度は、すぐ耳の後ろで、
――ザッ。
一歩だけ、足音がした。
私は思わず走り出した。
坂を下り、慰霊塔の近くまで来たところで、突然スマートフォンが震えた。
画面を見る。
電話ではない。
カメラが勝手に起動していた。
そして画面には、暗い坂道が映っていた。
「……何これ?」
おかしい。
私はカメラを向けていない。
しかも、画面の奥に何かが立っている。
黒い服を着た、小さな人影。
よく見ると――少年だった。
少年は、こちらを見ていた。
そして、ゆっくり右手を上げた。
まるで、
「こっちへ来い」
と手招きするように。
私は慌ててカメラを閉じた。
その瞬間。
背後から声が聞こえた。
「……まだ、帰らないの?」
振り返る。
誰もいない。
ただ、暗い坂道の向こうから、
――ザッ……ザッ……ザッ……。
また足音が近づいてくる。
私は一気に駐車場まで走った。
車に乗り込み、エンジンをかける。
そしてバックミラーを見た。
誰もいない。
「助かった……」
そう思った瞬間だった。
ミラーの端に、何かが映った。
後部座席。
そこに、さっきの少年が座っていた。
私は声も出せなかった。
少年は俯いたまま、ぽつりと言った。
「……もう一人、いるよ」
「え?」
少年が指差したのは――
私の隣。
助手席だった。
ゆっくり横を見る。
そこには誰もいない。
だが、助手席の窓ガラスには、
濡れた手形が一つだけ付いていた。
その瞬間、車の外から、
――ザッ……ザッ……ザッ……。
無数の足音が聞こえ始めた。
一人ではない。
十人。
二十人。
いや、それ以上。
まるで大勢の兵士が、暗い田原坂をこちらへ向かって歩いてくるようだった。
私はアクセルを踏み込み、夢中でその場を離れた。
翌朝。
昨夜のことが気になり、車を確認した。
すると、助手席の窓に付いていた手形は消えていた。
しかし――
後部座席には、泥で汚れた小さな足跡が残っていた。
しかも、その足跡は一つではなかった。
後部座席から助手席へ。
助手席から運転席へ。
そして最後の一つは、
私の耳元のすぐ横で止まっていた。
それ以来、私は田原坂の夜道を二度と歩かなくなった。
ただ、今でも時々思う。
あの夜、私が聞いた足音は、
本当に一人分だったのだろうか――。
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