佐波川トンネル――手招きする男

山口県の山深い場所に、佐波川ダムへ続く古いトンネルがある。

地元では、そのトンネルにまつわる奇妙な噂が昔から囁かれていた。

――夜、トンネルの中で男を見ても、絶対について行ってはいけない。

その男は、何も言わない。

ただ、少し離れた場所からこちらを見つめ、

「おいで、おいで」

と、ゆっくり手招きをするのだという。

ある夏の夜、大学生の男が友人二人と佐波川トンネルを訪れた。

「本当に幽霊なんて出るのか?」

笑いながら、三人は懐中電灯を手にトンネルへ入っていった。

中は思った以上に暗かった。

壁は荒々しく、ところどころ湿っている。

三人の足音だけが、妙に大きく響いていた。

――ザッ、ザッ、ザッ。

しばらく歩いた、その時だった。

先頭を歩いていた友人が突然立ち止まった。

「……なあ」

「どうした?」

「あそこ……誰かいる」

懐中電灯を向ける。

トンネルの奥。

そこに、一人の男が立っていた。

作業服のような服を着ている。

顔は暗くて見えない。

男は三人をじっと見つめていた。

そして――

ゆっくりと右手を上げた。

「……おいで」

小さな声が聞こえた。

三人は固まった。

男はさらに手招きをする。

「おいで……」

その瞬間、後ろにいた友人が叫んだ。

「行くな!」

三人は一斉に走り出した。

ところが、男は追いかけてこない。

出口まで走り抜け、息を切らしながら振り返る。

そこには誰もいなかった。

「……消えた?」

安心しかけた、その時。

一人が小さな声で言った。

「……待って」

「何?」

「さっきの男……」

彼はトンネルの中を指差していた。

「まだいる」

見ると、トンネルの奥に小さな人影が立っている。

しかも――

さっきより近い。

男はまた手を振っていた。

「おいで……」

三人は逃げようとした。

しかし、その瞬間。

トンネルの横にある細い脇道から、

――カツン。

石を踏むような音がした。

そして、

――カツン……カツン……

誰かがこちらへ歩いてくる。

「もう一人いる……」

恐怖で動けなくなった三人。

すると、奥の男が再び手招きをした。

「こっち……」

その声に誘われるように、一人が一歩前へ出た。

「おい……やめろ!」

友人が腕を掴んだ。

だが、その男は振り返りながら呟いた。

「……呼ばれてる」

「誰に?」

男は答えなかった。

ただ、暗闇の奥を見つめている。

その瞬間――

トンネルの外から、

「ザバァ……」

水のような音が聞こえた。

そして三人の耳元で、はっきりと男の声がした。

「……おいで」

三人は必死に走った。

振り返らず、車まで戻った。

エンジンをかけ、山道を下っていく。

誰も一言も喋らなかった。

しばらくして、助手席の男がふと後ろを振り返った。

「……なあ」

「何だよ」

「後ろの窓……」

全員が振り返る。

そこには何もない。

ただ、窓ガラスが曇っていた。

そして、その曇ったガラスに――

内側から指で書いたような文字が浮かんでいた。

『おいで』

三人は声を失った。

だが、本当に恐ろしかったのは、その文字ではなかった。

文字のすぐ横。

そこには――

濡れた手形が一つ、残っていた。

それから数日後。

三人のうち一人が、あの夜の写真を確認していた。

何気なくトンネル内で撮った写真。

何枚か削除していると、一枚だけ妙な写真が残っていた。

トンネルの奥。

そこに、男が立っている。

しかし――

写真を撮った時、三人はその場所に誰もいなかった。

そして写真を拡大すると、

男の顔がはっきりと見えた。

目は真っ黒だった。

口元だけが、不気味に笑っている。

さらに、その男の手は――

こちらに向かって、

ゆっくりと手招きをしていた。

「おいで」

写真を見ていた男の背後から、

誰かの声がした。

振り返る。

誰もいない。

もう一度、写真を見る。

すると今度は――

写真の中の男が、

さっきより少しだけ近づいていた。

そして翌朝。

その写真には、男の姿が消えていた。

代わりに写っていたのは――

三人のうち一人の背後に立つ、

濡れた作業服の男だった。

その男は今日も、

ゆっくりと手招きをしている。

「おいで……」

――佐波川トンネルでは、決して手招きについて行ってはいけない。

それはあなたを呼んでいるのではない。

あなたの後ろにいる「誰か」を、

こちら側へ呼び寄せているのかもしれない。

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