衣山処刑場跡――雨の夜に現れる女
松山市の衣山。
住宅や道路が広がる現在の街並みからは、そこがかつて処刑場だったとは想像もつかない。
しかし、この場所には昔から、ひとつの噂が残っている。
「雨の夜には、処刑場跡に鬼火が浮かぶ」
そんな話だった。
江戸時代、ここには松山藩の刑場があったと伝えられている。
そして現在、その一帯には慰霊碑や墓地が残されている。
ある夏の夜。
大学生の男が、友人と二人で衣山を訪れた。
「本当に何か出るのかな」
友人が笑いながら言った。
その日は昼から雨が降っていた。
夜になって雨は止んだものの、地面はまだ濡れている。
二人が処刑場跡の近くまで来たときだった。
――ポツ。
男の頬に、冷たい水滴が落ちた。
「雨?」
空を見上げる。
雲はある。
だが、雨が降っている様子はない。
その直後。
少し離れた場所に、ぼんやりとした青白い光が浮かんだ。
「……あれ、何?」
二人は黙って光を見つめた。
光は、ゆっくりと揺れている。
まるで誰かが持っている小さな提灯のようだった。
一歩近づく。
光も一歩、後ろへ下がる。
また近づく。
また離れる。
「……人?」
男が目を凝らした。
すると、光の後ろに何かが立っていることに気づいた。
白い服を着た女だった。
長い髪が顔を覆っている。
女は二人に背を向けていた。
「こんな時間に……?」
友人が声をかけようとした。
その瞬間だった。
女の首が――
ゆっくりとこちらへ回った。
体は動いていない。
首だけが、異様な角度でこちらを向いた。
髪の隙間から見えた顔は、真っ白だった。
そして女は、口を開いた。
「……まだ……帰れない……」
二人は同時に走り出した。
後ろを振り返ることはできなかった。
ただ、背後から女の声が追いかけてくる。
「待って……」
「待って……」
「私を……置いていかないで……」
男は必死に走った。
すると突然――
ガシャッ!
背後から金属を叩くような音が響いた。
振り返る。
そこには誰もいなかった。
ただ、暗闇の中に一本の階段が見える。
そして、その階段の一番上に――
黒い人影が立っていた。
男は息を止めた。
人影は、こちらを見ている。
動かない。
ただ、じっと立っている。
そのとき、友人が小さな声で言った。
「……あれ、誰?」
男は答えなかった。
答えられなかった。
なぜなら、その黒い人影の足元には――
濡れた地面に、無数の足跡が続いていたからだ。
その足跡は階段から始まり、二人のすぐ後ろまで伸びていた。
だが――
二人の前には、誰もいない。
「走れ!」
二人は再び逃げた。
それから数日後。
男は自宅で撮影した写真を整理していた。
衣山で撮った写真が一枚だけ残っている。
暗闇の中に、処刑場跡の入口が写っていた。
何の変哲もない写真だった。
しかし、拡大してみると――
入口の奥に、白い女が立っている。
そして、その女の隣にはもう一人。
黒い服を着た男が立っていた。
男は画面を見つめたまま凍りついた。
なぜなら、その黒い男の顔が――
自分自身だったからだ。
その夜。
午前二時十三分。
男のスマートフォンが鳴った。
着信相手は――
「自分」。
画面には、自分の電話番号が表示されている。
恐る恐る電話に出る。
すると、向こう側から聞こえてきたのは――
雨の音。
そして、女のすすり泣き。
「……まだ……帰れない……」
男は電話を切った。
その瞬間。
部屋の窓ガラスに、
ぺたり。
白い手形がひとつ浮かんだ。
そして、その横にもうひとつ。
さらに、もうひとつ。
まるで誰かが外から窓を叩いているように――
手形が増えていった。
最後に現れた手形だけは、
内側から押しつけられたように見えたという。
それ以来、男は二度と衣山の名前を口にしなくなった。
そして今でも、雨の夜になると――
自宅の窓の外から、
女の声が聞こえるという。
「……置いていかないで……」
「……私を……置いていかないで……」
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