青山海岸――波の向こう側

夜の海は、昼間とはまるで別の場所に見える。

ある夏の夜、男は一人で青山海岸を訪れていた。

昼間なら海水浴客や散歩をする人の姿もある海岸だが、日付が変わる頃になると、人影はほとんどない。

男は車を停め、波の音を聞きながら砂浜を歩いていた。

そのときだった。

「……すみません」

背後から、女の声がした。

振り返ると、少し離れた場所に一人の女が立っていた。

白い服を着ている。

こんな時間に一人でいることを不思議に思いながらも、男は声をかけた。

「どうしました?」

女は海を指差した。

「あそこに……人がいるんです」

男が海を見る。

暗い海の上には、何も見えない。

ただ、波がゆっくりと押し寄せているだけだった。

「どこですか?」

そう聞いた瞬間、女が小さな声で答えた。

「……さっきまで、あそこに立っていたんです」

男はもう一度、海を見た。

すると。

波打ち際から少し離れた場所に、確かに何かが立っていた。

人影だった。

黒い影が、海の中でじっとこちらを向いている。

「人……?」

男が目を凝らした、その瞬間。

隣にいた女が消えた。

「え?」

慌てて周囲を見る。

砂浜には男しかいない。

そして、海の中にいた人影も、いつの間にか消えていた。

怖くなった男は、急いで車へ戻った。

だが、車に乗り込んだとき、フロントガラスに奇妙なものが見えた。

濡れた手形。

外側ではない。

車内側のフロントガラスに、濡れた手形がいくつも付いていた。

男は息を呑んだ。

そして、その手形の一つを見た瞬間、さらに背筋が凍った。

手形の指先から、砂がこぼれ落ちていた。

まるで、海から上がってきたばかりの誰かが、車の中に入り込んだように。

男はエンジンをかけ、海岸を離れた。

それ以来、男は夜の海には近づいていない。

ただ、一つだけ今でも気になっていることがある。

あの夜、海を指差していた女。

男は一度も、彼女の足元を見ていなかった。

もし、あのとき足元まで見ていたら――

砂浜に、彼女の足跡がなかったことに気づいていたはずだった。

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